寒さのピーク

私にとって12月の中旬から1月中旬くらいが、気持ち的には寒さのピークですね。

それから先も寒くはありますけど、12月初旬、「あ~あ、今はこんなもんだけど、この先も寒くて、霜柱は立つは、水は凍るは、足先から冷えが上がってくるは、手の指先は冷たいは、いいことはひとつもないぞ」なんて思って、暗い気持ちになりますけど、ところが、年末年始の忙しさにかまけてバタバタしてて、ふと気づくともう、「この先も寒い」と思っていた、その「この先」のまっただなか、つまり1月も下旬の今ころになりますと、「でも、今は寒いけど、これこそは寒さのピークで、この先は暖かくなるいっぽうなのだ!」と思うこともできて、寒さにむかって、「ふっふっふ。君たち”寒さ”はがんばっているようだけど、それも今のうちだよ。君たちがどうあがいたって、これからは少しずつ、少しずつ暖かさが増してくるだけなのだよ。せいぜい悪あがきすることだね。ネコはコタツで丸くなるだよ」なんて、ワケのわからないことをつぶやいて、暖かさへの期待で瞳はキラキラ、行きつもどりつしながらも、それでも季節は春に向かってゆっくり進んでいるということのヨロコビを体の内に感じて、そうすると、「まあ、せっかくだから、この寒さも楽しんでみてやろうじゃないの」なんて、心の余裕も少し出てきて、そう思うと、「口から出るこの白い息だって、これはこれで、冬の朝のひとコマとして、趣(おもむき)があっていいもんなんじゃないの?」なんて、冬の日の風流を気取ってみたりするという、まあ、そんな今日この頃となってまいりました。

(庭先の霜柱)

ノヴァーリス著 ”青い花 ”

ノヴァーリスの ”青い花 ”を、私は読んだのかどうか…。その本をいったい、いつ買い求めたのかさえ、まるでわからないですね。

私の手許には古びたその本が残ってます。だから、それを私は読んだのだと思うんですけどね。

しかし、その内容に私は覚えがなくて━、それにもかかわらず” 青い花 ”の幻想は、目に見えない伏水となって、私の無意識のうちにずっと水脈を作り続けていたのかも知れないという気がしています。

メーテルリンクが「精神の究極の表現者」と称し、ニーチェが「経験や本能にひそむ聖なるものはノヴァーリスによって発見された」と言い、思想家のルカーチが「ノヴァーリスだけが、ドイツロマン派の唯一の、そして正真正銘の詩人である」と称賛したというこの幻視者は、ザクセン製塩所長官、ハイデンベルク男爵を父に持ち、13歳の婚約者ゾフィーをすぐに重病で亡くし、彼自身29歳で死去するという薄幸にして短命の18世紀の詩人です。

童話を文芸の規範として、「詩的なものはすべて童話的でなければならない」とし、自己の世界観を魔術的観念論と呼んだノヴァーリスが残した” 青い花”は、それが未完であるということも含め、不可思議で奇妙な幻想譚です。

第1部終盤で詩人クリングスオールの語るメールヒェンの中で、スフィンクスは少女ファーベルにたずねます。「稲妻よりも急激に来るものは何か?」━「復讐」とファーベルが答えます。「この世で一番無常なものは?」━「不正の所有」。「世界を知っているものは誰だ?」━「自分自身を知っているもの」。「永遠の秘密とは?」━「愛」~。スフィンクスはみじめに身体を曲げ、ファーベルが洞窟の中へと入って行くことを許し、ここから先、物語りは、もはや熱病に浮かされたかのような、錯乱的、魔術的狂乱へと入りこんで行きます。

私は最近、この” 青い花 ”を読みかえしてみましたが、私にとってそれは初めて読んだ物語りのような感じがしました。

クリングスオール・メールヒェンは「かつては支離滅裂で鑑賞にたえないもの」と評されたということです。

確かにその通りだと思います。でも私が一番気に入っているものこそ、このメールヒェンです。

狂気すれすれの、それこそ「魔術的観念」によって著わされた、稀(まれ)に見る奇想が出現した記述が美しいです。

” 月と星の精霊 ”

以前から仕事部屋に顔のある三日月のオブジェが欲しいな~と、ぼんやり思っていて、でもそんなのはなかなか見つからなくて、それなら自分で作ってみようか、とか思ったりしたのですが、造形については私はシロートなので、そんなにすぐ作れるものでもなく、粘土で作るか、石膏か、あるいは針金や金属の組み合わせで作るか…、なんて考えてると、どうも面倒くさいし、難しいし、それなら絵で描くか、ということで、これまでの油絵とは少し違うけど、0号のキャンバスに、装飾的な、小さく秘密めいた画面で、夜想的な絵を、イラストの仕事の合間に少しずつ描きました。

先日完成したので、手元にちょうどあったアンティーク調の白い額縁におさめてみました。

写真に撮ったんですけど、いまひとつ色あいや質感が出ませんね。本当はもっと輝いて夜や月の色も、いい感じなんですけどね…。

ただこれ自体、月と星の絵ということで、昼間見てもなんだかしっくりきません。ところがこれが夜ともなると、なかなかいい雰囲気になります。そこで、さてどこに飾ろうかとなって、壁面を見ると、そこらあたり他の絵でいっぱいで、結局飾るとこもなくて、今、なんとなくそのへんに置いてあるという、そんなようなことになってます。

ノラじゃなかった ” 黒べえ ”

うちにメシを食べに来る、半ノラの黒ネコ、”黒べえ ”ですが、飼い主が判明しました。うちから1キロくらい離れたとこの家の飼いネコだということのようです。

となりの車修理工場に車を持ってきた人が、「うちのネコが2年くらい前からいなくなって捜してて、おたくはノラネコの面倒もよくみてるという話しですが、こんな黒ネコ、見たことないですか」と言って写真を見せて、それを見ると、なんとまさに黒ネコの黒べえだったと(今より少し若い写真だったそうですけど)、となりの人からそんな電話連絡があったその日から3日間、もう黒べえはうちに姿を見せないので、「これは、飼い主に保護されて、今ころはその家のコタツにでも入ってるんだろうな」なんて思ってました。

買い置きのキャットフードや、ネコ用牛乳がいっぱい残ったけど、まあ、となりにあげればいいか、なんて思いながら、黒べえがいつもメシ食ってたカラッポの皿をボンヤリ眺めて、「こんな寒い中、外をうろつくよりも、家の中に入れてもらって暖かく過ごすほうが、黒べえにとっては良いに決まってるしな」と思い、しかし、「あの警戒心いっぱいで、身のこなしのすばやい、自由きままに外の世界になじんだネコを、飼い主といえども、よくすんなり保護できたものだな…」なんて考えていて…。

ところが昨日、皿の置いてあるところに黒べえがいつものように座っているのを発見。私の顔を見ると「ニャーア」とメシの催促を始めました。

「おまえさん、飼い主に保護されたんじゃなかったの?」と言いながら、私は皿にキャットフードを入れてやりました。

黒べえは相当に腹が減ってたようで、ガッついて食べてましたが、この3~4日、どこでどうしていたんでしょうね?

(雑貨屋で売ってた黒べえそっくりのぬいぐるみ)

 

音楽を聴く

音楽を作曲する人は作曲家、演奏する人は演奏家、ミュージシャン。その音楽について評論する人は評論家、などと言いますが、私が思うに、音楽を聴くことのプロ、聴家…「ちょうか」じゃあ語感が悪いので聴取家(ちょうしゅか)…う~ん聴取じゃあ取り調べしてるみたいなので、ひっくり返して取聴家(しゅちょうか)なんてのがあってもいいんじゃないかと思いますけどね。

取聴家は何か生産的なことをするんじゃなくて、ただただ音楽を聴き、感じつくすという、そんなようなことをするプロ、その呼び名ということでいいんじゃないでしょうか。

本当にそういうのがあれば、私なんかはプロと言うのはおこがましいかも知れませんが、まあきっと取聴家のはしくれではあったんじゃないかと思いますけどね。特に技能も必要ないですしね。

高校生のころは、母屋とは別棟の離れに部屋があったので、私はそこで深夜ひとりレコードを聴いてました。

明かりを消して、闇の中、目を閉じてひたすら曲に耳をかたむけていて、その当時、自分流の表現でそれを、「滝に打たれるように聴く」なんて言ってましたけど(ちょっと気持ちわるいですかね)、自分では心地よかったですね~。

その時間だけは世間と隔絶して、音楽の王宮に住んでいるような、孤高にして無二の音楽至上主義者きどりでしたね。つまり取聴家ですね。世の中の役にはまったく立ちそうにない存在ですけどね。

(当時の憧れの名器のカタログ)

聖地エルサレム

今から800年も前のこと、ローマ教皇によって、神聖ローマ帝国皇帝に任命されたフリードリヒ2世は、十字軍を組織してエルサレムを奪還せよとの教皇の命令をなかなか実行せず、やっと出発したものの、チフスに倒れてすぐ帰還したそうです。

これに怒った教皇はフリードリヒを破門、このことに対しフリードリヒは、「教皇は羊の皮をかぶった強欲なオオカミだ」と言い、独自の方法でエルサレム奪還を成し遂げようと、イスラムの王、アルカーミルと書簡によるやり取りを始めます。

互いに理解を深めたところで、フリードリヒは「エルサレムを私に渡してほしい、さもないと私は国に帰れない」としてアルカーミルと交渉しますが、アルカーミルだってそれはなかなか受け入れられません。

長い交渉の後、やっと平和条約を締結し、神聖ローマ帝国とイスラムの国によるエルサレムの分割統治が始まります。

エルサレムに足を踏み入れたフリードリヒがイスラムの丘に行くと、フリードリヒに気を使ったイスラム教徒は、イスラムの祈り” アザーン ”をとりやめようとします。

するとフリードリヒはそれをよろこばず、「私はイスラムの人たちの祈りを聴きたい」と言って、アザーンをとりおこなうことを促(うなが)したということです。異教の儀式に敬意をあらわしたフリードリヒ2世は、世にもすばらしい皇帝です。

しかし、ローマ教皇はこの平和条約を、「戦わずに条約を交わすなど、悪魔と契約することだ」となじり、平和は続かず、キリスト教は再びイスラムとの戦いを続けることになったということです。

「悪魔との契約」どころか、フリードリヒ2世とアルカーミルこそは平和の使者であったことは明白ですよね。

今でも聖地エルサレムをめぐって対立するユダヤ・キリスト教とイスラム教には、このいにしえの賢者たちのような相互理解と寛容さを持って、この地の上に平和と繁栄を実現させていただきたいと願うばかりです。

モーツァルト、あるいはフォーレ ” レクイエム ”

死者のためのミサ曲、”レクイエム”といえば、モーツァルトのそれですかね。

キリエの中盤、「Kyrie  eleison」、主よ、あわれみたまえ~から始まるパートでは、まるでJ・S・バッハの頃へと先祖返りしたかのような、荘厳にして厳格な、絶妙の合唱が奏でられ、圧倒されます。

おそらく”レクイエム”は、これこそが唯一にして無二の名曲と言いたいところですが、フランスの作曲家、フォーレのレクイエムを聴くと、その確信にゆらぎが生じます。

フォーレのレクイエムには、モーツァルトのように、天上の聖歌隊からの、のしかかるような重々しくも荘厳な響きはありませんが、代わりに天界の乙女たちからこぼれ来たように届けられる、甘美にして詩情に満ちた歌声が奏でられ、キリスト教徒でない私ですら、来たるべき神の王国の予感に満たされ、自身があたかも生まれながらの良き信徒であったかのような、陶然としたこころもちにさせられます。

私が好きなのは、歌唱のパートにボーイ・ソプラノの入ったもので、ミシェル・コルボ指揮、ベルリンフィルの演奏で、ボーイ・ソプラノ、アラン・クレマンのものをLPとCDで持ってます。

特に第3曲”サンクトゥス”、第4曲”ピエ・イエズス”が、ボーイ・ソプラノで朗々と歌いあげられると、私の気分は敬虔を通りこして、もはや法悦の域にと達します。

「聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主よ。汝が栄光は、天と地に満ち満ちたり」て、本当にそんな気分になりますね。

(CDとLPレコード)

 

狐の行列

テレビで、東京は王子で大晦日にやる王子稲荷神社の”  狐の行列  ”というのを特集してて、見たんですけど、じつによかったですね。

26年前からやってるそうで、比較的新しい行事のようですが、外国人に人気らしくて、今年は世界各国から5000人もの人が見に来たということです。

装束を持参すれば着付けをしてくれて、顔にキツネのメークもしてくれて、行列に参加できるということで、地元の人たちと外国の人で、なかなか盛大なもり上がりを見せてましたね。

子どもたちは白装束や、振りそで姿、ハッピ姿で、キツネのメークをしたり、お面をかぶって、ひと足すすむと、後ろ足を前にそろえる歩き方で進み、行列は実におもむきがありました。

新年の明けた零時にスタートして、稲荷神社に着いた後、奉納の舞いなどあって、深夜に終了というこの行事、なんだか私はグッときて、イタリアのヴェネツィアで2月にやってる”  カーニヴァル  ”と同じくらい好きかもなんて思いました。

少女の巫女さんが白い狩衣(かりぎぬ)姿にキツネのお面をつけて、正装した姿で進むとこなんて、なんだかふしぎにワクワクしましたね。

王子は東京書籍という出版社の本社があって、昔はよく打ち合わせで行ってましたけど、こんな行事やってたとは知りませんでした。機会があれば見に行ってみたいです。

 

” はじめてのえいごえほん のりもののおはなし ”

今は小学校から英語、教えることになってるんですかね?

我々のころは中学生からでしたけど、これは今、思えばヘンテコな教えかたでしたね。

「This  is  a  pen 」とか、「He  is  a  boy  」なんてのを最初に習うんですからね。「これはペンです」、「彼は少年です」て、日常のどんな場面で使うんだってことですよ。

そんなの教えたって、いわゆる試験用の教育にはなるでしょうが、実用性はゼロですよね。

それが証拠に、この歳まで生きてきて、外国人と会って、「This  is  a  pen  」て、使ったことなんて、いまだかつて一度もないですからね。たぶんこの先もないと思いますよ。「He  is  a  boy  」だって、「I  am  a  boy  」だって、使わないでしょうね。

斎藤一人さんも言ってましたが、「  一度も使わないうちにboyじゃなくなった」てね。

最近、イラストを描いた英語の絵本は、なかなか  good  ですね。くもん出版から出てます。”  はじめてのえいごえほん のりもののおはなし  ”。CDも付いてます。

こういうので育った子どもは、外国人と対面しても、自然に話せるようになるんでしょうね。

「  Yes,  yes,  Woopee  !」(わーい、うれしいな)なんて表現、出てきますからね、この本の中には。

寒い話し

寒い中で寒い話しはしたくないんですけど、絶対零度、あれがどうもよくわかりませんね。

マイナス273度というやつですけど、温度の上限は何千度、何万度、何億度と、それこそキリがないのに、マイナスになると273度で打ち止めというのは、「ホントかいな?」と思いますよね。

これは、気体を水の凍結する零度から沸騰する100度まで熱すると、容積が2.73分の1だけ増えるので、これを100等分したら、1度につき273分の1の容積変化があると。だから0度からどんどん冷やしていくとマイナス273度になったとき容積ゼロになるので、理屈ではマイナス273度より下はない、と、そんなことのようですが…、まあヘリウムなどの気体は絶対零度の手前で液化するので、もはや容積ゼロにはならないみたいです。

論理といいますか、理屈ではね、仮想の気体だと273度が下限ということで、絶対零度はマイナス273度だと…。

でも、ドイツの物理学者が、絶対零度より少しだけ低い温度を実現したところ、重力に逆らう原子が見られたらしいです。

夢の反重力物質ですよ。すごいですね!

これで乗りもの作ったら、UFOみたいに飛べるかもです。でも、マイナス273度より低い温度の乗りものじゃ、乗った瞬間に人はコチンコチンに凍るでしょうけどね。