「魂の伴侶」

アメリカの精神科医、ブライアン・L・ワイス博士の著書「前世療法」(PHP出版刊)の続編、「魂の伴侶」の中に出てくるのは、こんな話しです。

ある女性が小さいころからずっと、自分のベッドの横に手をたらすと、とてもやさしい手が、いつも彼女の手をにぎってくれたそうです。

ベッドの下にだれかいるわけではなくて、でもどんな不安なときも、その手につつまれると彼女は安心することができて、大人になっても彼女が手をのばすと、その手は変わらずそこにあったのだそうです。

ところが、その女性が結婚し、最初の子どもを身ごもると、その手はもうあらわれなくなってしまい、彼女は「このやさしくて親切な友達がいなくなって、とても悲しかった」そうです。

彼女には女の子の赤ちゃんが生まれたのですが、「二人でベッドに寝ていると、赤ちゃんが彼女の手をにぎった。その時急にあのなつかしい感覚が彼女の心と体に力強くよみがえってきた」のだそうです。「彼女の守護天使が戻ってきたのだった」と、ワイス博士は書いていて、彼女はそのとき「至福の思いの中で、肉体を超えた永遠の愛のうねりとの深いつながりを感じた」ということですが、女性というものはじつにふしぎな体験をするものです。

 

「ネコヅメのよる」

夜空にかかる三日月(みかづき)というのは、神秘と幻想をはらんで美しく、夢想家に尽(つ)きせぬ霊感を与え続けていますが、この三日月よりもさらに不思議な月、めったに見られない三日月こそが「ネコヅメ」という月なのだそうです。

そんな「ネコヅメ」のあらわれる夜のことを描いているのが、絵本作家、町田尚子さんの絵本「ネコヅメのよる」(WAVE出版)です。

「ネコヅメ」は三日月の一種ですが、その欠けかたは独特で、三日月の片方(かたほう)だけが、まるでネコのツメのようにとがった奇妙な三日月で、その出現が近づくと、ネコたちはそれを直感的に感じとり、「ネコヅメのよる」の深夜には、おびただしい数のネコたちが広場に集まり、その出現と同時に「ねこぜ」を伸ばして、夜空にあらわれた巨大なネコヅメ形の月をながめるという、そんなおかしくも幻想的な日の一部始終を、町田さんは美しくも緻密(ちみつ)な筆づかいで描き上げています。

絵のそこかしこに、作者のネコ好きの気持ちが描きこまれていて、何度ながめても飽きることのないネコ絵本の傑作です。            (これが「ネコヅメ」)

大根の葉っぱ

マンガ家の広兼憲史さんが、ラジオ番組に出て、「一人で生活する場合、うまくやれば食費は3日で1000円で充分やっていけます」と言ってました。

ごはんだけ炊いておいて、あとは買ったダイコンなど、皮もきざんで炒めたりして食べるそうで、ある時など、スーパーで買い物していて、ダイコンを買った主婦が葉っぱを捨てようとしていたので、「その葉っぱ、もらっていいですか?」と言って譲り受け、持ち帰ってから料理して食べたそうです。

ダイコンの葉は、細かくきざんで油で炒め、かつぶしまぶして、しょう油かけると、うまいですよね。

広兼さんは、「あの主婦、”今日、気の毒な老人がいてね、私が捨てようとしたダイコンの葉っぱ、もらってもいいですか?て言ったのよ。だからあげたわよ”と、家族に話したんだと思うよ」と言ってました。

まさかその主婦は相手が有名マンガ家だとは思わなかったでしょうね。

”食費、3日で1000円”は、「ゲーム感覚でやればいい」とのことで、「真剣すぎると、ちょっとみじめな感じがする」からだそうです。

スーパーで売られてるダイコンはだいたい葉っぱ切ってありますが、たまについたままのを見つけると、私は買ってきて、葉っぱだけ炒めて食べますね。さすがに葉っぱ捨ててる人に、「それください」とお願いする勇気はないですけどね。

「アイビスの飛行」

イギリスのプログレッシブロックグループ、キングクリムゾンのメンバーだった、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズ、ピーター・ジャイルズ兄弟が組んで発表したアルバム、”マクドナルド・アンド・ジャイルズ”(1970年発表)の中に「アイビスの飛行」という曲があるのですが、私はこの「アイビス」って、もしかして知能生物「アイビス」のことなんだろうか、どうなんだろうか?と、ずーと思い続けています。

知能生物「アイビス」は、ヴァン・ヴォークトというSF作家が1944年に発表した短編のSF”平和樹(原題 The Harmonizer)”の中に登場するものです。

8000万年前に「アイビス」を積んだ宇宙船が地球に墜落し、白亜紀の地殻の大変動の中「アイビス」は、土に埋もれて眠り続け、8000万年後によみがえって発芽し、その銀色のツルの先から発散される胞子によって、それを吸った動物すべてが殺意や獣性をなくし、平和な性格になってしまうというもので、「アイビス」が育生した地球の生態系はそのために根本から変えられてしまうという話しです。

この「アイビス」は知能を持っていて、自分をとりまく植物に擬態(ぎたい)したり、危険が迫ると芽を地中に潜伏させたりすることができるという、すごい植物です。

「アイビス」の無数の胞子が、風に乗って地球に広がって行く様子は、まさに「アイビスの飛行」と言ってもいいような景色だと思うのですが、はたして”マクドナルド・アンド・ジャイルズ”の曲「アイビスの飛行」はそれにインスピレーションを受けて作られたものなのかどうか…。

歌詞を見たかぎりでは、どうもそんなSFチックな内容ではないみたいなのですが━。

(アルバム”マクドナルド・アンド・ジャイルズ”ジャケット)

ヘンリー8世の6人の妻

イギリスの中世の世界が、シンセサイザーの音色とともに現代に出現したような気分にさせられる曲の数々、「ヘンリー8世の6人の妻」は、キーボード奏者、リック・ウエイクマンが1973年に発表したプログレッシブロックのアルバムです。

リック・ウエイクマンは同じイギリス出身のキーボード奏者、キース・エマーソンにくらべ、よりイギリス的でクラシカルで、叙情的なメロディーメーカーです。

ヘンリー8世の6人の妻それぞれの名前のついた6曲はどれも、並行宇宙に存在する変容した中世の世界をのぞき見るような、ふしぎな気分を喚起(かんき)させる名曲ばかりです。

このLPを、私は高校2年の時に買い求めまして、夜おそく部屋の電気を消して、まっ暗な中でこれに聴き入っていると、離れの6帖のボロい和室が、まるで石造りの中世の伽藍(がらん)のように妄想の中で広がり、私はその中で壮麗な音楽に身をゆだねてました。

たぶんあの気分のまま、部屋の外に出て行けば、そこはもしかするとイングランドの夜の森にでも続いていたんじゃないかと思うほどでしたね。

(「ヘンリー8世の6人の妻」LPジャケット)

神田神保町のラーメン店

昔、イラストの打ち合わせに行くときは、いつも急ぎ足でしたね。

別件で次に約束している予定の時間がギリギリだったり、まだ少し余裕があると思い、本屋に寄っていると、知らない間に時間が過ぎてしまったり、初めて行く出版社だと、時間に余裕をもたせて家を出たのに、駅からの道のりが予想以上に長くて、しかも通りを1本まちがえてしまったり…、とにかく打ち合わせに行くときはだいたいいつも急ぎで歩いていた記憶があります。

今では打ち合わせは、メールと電話でほぼ済んでしまい、担当の編集の人と1回も顔を合わせないということがほとんどですけどね。

東京にいたころ、神田神保町付近で打ち合わせがあるときは、終わってから必ず、神保町の交差点を水道橋方向に行った白山通りの左側にあるトンコツラーメン屋に行きました。

トンコツなのに魚介のダシも加えてあり、スープといい、麺といい、私の好きなラーメン店ベスト3に入ります。

今は東京を離れてしまったので、ひんぱんには行けませんが、東京に行ったときには必ず寄ることにしています。「なかなか食べに来られなくて、禁断症状みたいに、ここの味が恋しくなるよ」と言うと、店長は「親にも言っちゃダメだよ」と言って、市販のラーメンをここの店の味に近づける秘伝を私に耳うちしてくれました。

私はその方法で時々、家でラーメンを作って食べますが、たしかに市販のラーメンが本当にあの店の味に近いかんじになっておどろきです。

でも店長との約束なので、この秘伝は誰にも教えるわけにはいかないですけどね。

(秘伝の一部、特性タレを入れたビン)

「五つの橋」

昨年、亡くなったミュージシャン、キース・エマーソンが、プログレッシブロックのグループ、EL&Pを結成する以前に作っていたグループ”ザ・ナイス”のアルバムに、”組曲~「五つの橋」”というのがありますが、LPレコードは1974年に日本フォノグラムから発売されてます。

キース・エマーソンは若いころからシンセサイザーによるロック音楽とオーケストラの融合を模索(もさく)していて、この”五つの橋”は、キース・エマーソン自身の作曲で、ジョセフ・イーガ指揮、シンフォニア・オブ・ロンドンとの共演というかたちで、1969年の録音。荒けずりながら、クラシカルな色調の音楽となっています。

LPには他に、シベリウスの”カレリア組曲”や、チャイコフスキーの交響曲6番”悲愴”第3楽章、J・S・バッハの”ブランデンブルグ協奏曲”6番などもアレンジして演奏されていて、キース・エマーソンの選曲のセンスの良さが感じられるものとなっています。

ところで、”五つの橋”というタイトルの曲は、日本のプログレグループ、ザバダックにもあって、これはアルバム”桜”の冒頭に入っている曲ですが、両者には共通するものはなく、このタイトルの一致は偶然なのかどうなのか、ちょっと調べてみましたが、私にはわかりませんでした。

ザバダックの”五つの橋”は、クラシカルというよりも、スペインあたりの古き良き歌を思わせるような、なんとも美しい西欧のリリシズムに満ち満ちた名曲です。グループの歌姫だった上野洋子さんの作曲ですが、これを聴くたび私は「よくもまあ、こんなメロディーが降って来たものだな」と、この人の才能、そして歌唱に、いつも感心してしまいます。

(ザ・ナイスのLP”五つの橋”と、ザバダックのCD”桜”)

「ミスター・マンディー」

20代のころ、会社員をやっていたとき、やっぱり月曜日は憂鬱(ゆううつ)だったですね。

そのころはまだ、週休2日制ではなかったので、休みは日曜日だけでしたが、金曜日の夜あたりから気分は週末モードになってきて、土曜日はワクワク感で満たされて━そう言えば昔、ピンキーとキラーズというグループの曲に”土曜日は一番”というのがありましたね。「明日は日曜日だから、土曜日の今夜はハメをはずして踊ってもいいんだ!」といった歌詞で、土曜日の夜を絶賛してましたが、つまり、そんな感じで土曜日は楽しさと誘惑に満ちていて、でも、明けて日曜日は、昨夜の放埓(ほうらつ)のツケで胃がムカムカ、頭はガンガンしていて、起きるのが遅いものだから、あっというまに午後になってしまい、だんだんと月曜日の朝の起床が気になり始め、さまざまな仕事の段取りも頭をよぎって、あ~あ、なんて、思っただけでも月曜日というのは憂鬱でしたね。

そんな月曜日のことを歌っているのかどうか、歌詞の内容はそうでもないような気もするのですが、70年代初めに日本でヒットした洋楽に”ミスター・マンディ”というのがありました。

ザ・オリジナル・キャストというグループが歌っていて、私は中学生のころ、そのファンクラブに入ってた記憶があります。

さて、現在の私ですが、イラストの仕事には日曜日も月曜日もありませんね。ヘタすれば、今日が何曜日なのかよくわかってないことだってあります。

どうしてもイラストの内容のことで、編集の人に連絡しなきゃならなくなって、メールだともどかしいので電話してるのに、ぜんぜん誰もでないので「どうなってるんだ!」なんてイキドオッていると、それが日曜日だった、なんてこともたまにありますね。

二人の天使

脳と意識の研究で有名な生物学者、ジョン・C・リリー博士は、若いころ3度の臨死体験があると本に書いてます。

1回目は7歳で扁桃腺除去手術のとき、次は10歳で結核にかかって高熱を出したとき、そして22歳で麻酔剤を使って4本(!)の親知らずを抜いたときだったそうです。

博士はそのとき、3度とも同じ2人の天使に会ったそうですが、1958年に、意識について研究をするため感覚遮断実験をおこなった際、そこでも同じ2人の天使が出現し、「人間、宇宙、知的ネットワーク」について教えられたということです。

天使は「人間の住む宇宙が属する時間と空間の外にある”次元のない空間”に私たちはいて、そこではすべてがつながりを持った知的ネットワークとなっていて~この世にいる人間は、実はこのネットワークからの使者であり、それぞれが自由に生きているつもりではあっても、その生涯はガイドたちによって絶妙にコントロールされた”偶然の一致制御センター”で操作されている」と語ったということです。

博士はそれ以外にも、LSDという幻覚剤を使った実験の中でも2人の天使に会っていて(現在はLSDの使用は禁止)、そのとき、天使は、「私たちはあなたのガイドであり~常にあなたと共にいるのだが、普段は知覚できる状態にはなく、あなたが身体的な死に近づいたとき、私たちを知覚できるようになります」と語ったということです。

最初の出会いである7歳の臨死体験のとき、リリー少年は天使に「ぼくたちと一緒に行きたいかい?」とたずねられ、「あなたたちと行ったら、ぼくは死んじゃうの?」と質問すると、「それが死ぬということなのさ」と教えられたそうです。

(”2人の天使” コラージュ)

 

「天文観測のときー恋人たち」

マン・レイは1890年、アメリカ生まれの写真家にして画家、シュルレアリストで、レイヨグラム、ソラリゼーションといった技法を駆使した写真が有名ですが、私が好きなのは「天文観測のとき-恋人たち」と題された油彩画です。

うろこ雲のあるモノトーンに近い空を背景に、巨大な朱色(しゅいろ)の唇(くちびる)が画面全体を圧するように浮かぶという、まさにシュールにして幻想的なこの絵を、私は大学生のころケント紙に水彩で模写して、寮の部屋の壁に貼ってました。

同じ寮に住んでいた写真科のスガワラ君が、この模写を大変気に入ってくれて、たしか彼にあげたんじゃなかったかな…。

空に浮かぶ唇は、まさに「恋人たち」の象徴で、「天文観測のとき」というタイトルがいかにもおしゃれで、大学生だった私は、”これは部屋に飾るのにピッタリだ”と思って模写した記憶がありますが、今、あらためて調べてみると、タイトルは「天文観測のとき」ではなく「天文台のとき」となってますね。

「天文観測のとき」は私のカン違いですかね。こっちのほうが、私は音のひびき的にピッタリくる気がしますけどね。

(「天文観測のとき-恋人たち」さっきざっと模写したもの)