長岡勝弥先生 その2

長岡先生は終戦後、戦地から日本にもどって、開業医をされていたとのことです。廃業した病院の建物を借りて、1人だけで医院を開業したころ、その病院で夜ベッドに寝ていると、深夜に幽霊みたいなだれかが自分の体の上に乗っかって来るということでした。

先生が言うには「角さん、ふしぎなものでね、それが来るのはいつも夜中の2時を過ぎてなんですよ。丑三つ時(うしみつどき)とはよく言ったもんですよ」。

それは、寝ている先生の足のほうから、ゆっくりはいあがって来るのだそうです。先生は正体を確かめてやろうと思って、ある夜それが胸のあたりまで上がってきたとき、グワッと抱きついてみたのだそうです。

「それは確かに女性だったですよ。体の感触でわかりました。抱きつくとすぐにスッと消えてしまいましたけどね」。

その次の日、夜中2時を過ぎたころ、先生は寝ないでいて大きな声でこう言ったそうです。「幽霊さん、私はタバコを吸うんだが、この病院のどこに灰皿がしまってあるのかわからんのだよ。持ってきといてくれんか」。

すると翌朝、先生のベッドの横にちゃんと灰皿が置いてあったそうです。それからその幽霊は出てこなくなってしまった、ということです。

用事を言いつけられるのがイヤだったんでしょうかね。

(鉛筆画です。本文とは関係ありません)img550

長岡勝弥先生のこと

MRTの内海先生と同じころ出会ったのが、長岡式酵素玄米という玄米を炊く釜を作られた、長岡勝弥先生です。長岡先生は日本画に詳しく、たしか何かの日本画展の委員をやっておられたような…。

先生は釣りの名人でもありました。先生が以前、地方の知人の家に行かれたとき、どうしてもアユが食べたくなったので、近くの川にアユを釣りに行った話しを聞かせていただいたことがあります。

その川をよく知る地元の知人は「長岡さん、ここでは無理だよ。今まで誰もここでアユなんか釣ったことないんだから」と言うのを尻目に、先生は川に向かって「川の神様、今日、私と知人とその友人3人、合わせて5人分のアユを取らせてください」とお願いをして、釣りざおから糸をたらすと、すぐに5匹のアユが釣れたそうです。

知人が驚いて「こんなに釣れるなら、もっと釣って帰ろう」と言うと、長岡先生は「川の神様に5人分とお願いして、5匹いただいたのだから、これ以上取ってはいけません」と言って、川をあとにしたということです。

ある日、長岡先生からお誘いがあって、「角さん(先生は私よりかなりご年配だったのに、私のことを”さん”付けで呼ばれました)、こんど茨城県にある皇祖皇太神宮に行くのだけれど、一緒に行きませんか」と言われました。

私はその神宮のことはボンヤリとしか知りませんでしたが、よろこんでご一緒させていただくことにしました。

(今は亡き長岡勝弥先生)%e9%95%b7%e5%b2%a1%e5%8b%9d%e5%bc%a5%e5%85%88%e7%94%9f

皇祖皇太神宮に参拝し、近くにある旅館の部屋で夕食を済ませたとき、先生は壁に掛けてある水彩画をじっと見ながら、私に「角さん、あの水彩の風景画に私が空気を描いてみせましょうか」と言いました。驚きながらも私が「はい、お願いします!」と言うと、先生は壁から絵をはずし、持参のカバンから旅行用のスケッチセットを取り出し、おもむろに筆に近くのコップの水をふくませ、サッと絵の表面をなでました。

先生によると、絵の具をつけない水だけでも、絵の必要な部分に一筆加えると、それによって空気感が加わり、より奥行きのある絵になるということでした。

ところが先生は筆を手にしたまま絵をながめて「う~ん」とうなり、こう言われました。「角さん、この絵は本物じゃなくて印刷だ」。そのため、先生の言われた空気感は残念ながら、その風景画にはあらわれませんでした。

でもこのことは、私が水彩画を描くときの参考になっていて、ごくうすく絵の具をふくませた筆で画面をなぞることで、絵に奥行き感といいますか、深みを出すのに役立っています。

MRT良法(りょうほう) 内海康満先生

ある日、虫歯の痛みで寝込んでいると出版社から連絡があり、整体治療関係の先生が本を出すので、そのイラストを描いてほしいということでした。その先生は兵庫県から出てきているので、今日打ち合わせをしたいと言われている、と。

私は「歯が痛くて、それどころではないです」と断わったのですが、「どうしても今日、打ち合わせをしたい」と何度も言われ、しかたなく、ものすごく不機嫌な顔で打ち合わせに行ったのを覚えています。

われながら「こんな仏頂ヅラして初対面の人に会うのは失礼だよな」と思いながらも、虫歯のズキズキはどうしようもなく、やっとたどり着いた打ち合わせ場所で、その先生は私の態度にもかかわらず、坦々と自ら開発された療法を語られました。それが現在、四国の松山に本部を置き、日本各地で「MRT良法(りょうほう)」を展開されている内海康満(やすみつ)先生です。

先生は以前、空手を指導されていたことがあるらしく、その風貌は端正な中にも鋭さが感じられ、まさに武道家然としていて、そのたたずまいは自然体であるにもかかわらず、強烈な”気”のようなものが発せられていて、打ち合わせが終わったころ気がつくと、私の虫歯の痛みは完全にどこかに飛んで行ってしまってました。

内海先生には一度だけ実際のMRT良法を体験させていただきました。磁気の力で測定した仙骨(背骨の一番下にある骨)の変異を調整するというもので、ほんのわずかな刺激をコツンと仙骨に与えるだけなので、その場ではわからなかったのですが、夜フトンに入ると、刺激された仙骨のところが暖かくて、わずかに「ブオーン、ブオーン」と振動しているのが感じられ、ふしぎな気分でした。

MRT良法は「ガンから水虫まで」有効な治療ということですが、内海先生は、病気治療を通じて人間を本来あるべき人の姿へと導くという、広い視点に立ってこの活動を展開されているようです。

img535(初期のパンフレットのイラストです)

 

阪神甲子園球場のイラストを描く

いま、イラストの仕事はほとんどが書籍のものばかりですが、昔はそれ以外にもいろいろ描きました。印象に残っているのは「阪神甲子園球場創立50周年記念」という巻物のイラストです。

左右2メートル近くあったんじゃないかと思います。昔の甲子園球場の外観を展開した絵で、ツタのからまる壁をリアルに描き込みました。

制作には1か月くらいかかったと思いますが、この絵を巻物にして、背景の空に阪神タイガースの選手の顔がずらりとならんで印刷される限定モノということでした。いまから30年以上前のことです。

イラストは特注のベニヤ板にジェッソの下地を塗り重ね、サンドペーパーをかけてフラットな面にした自作のボードに描きました。

完成した絵を印刷会社に運び込むのに、軽トラックの荷台に乗せて行った記憶があります。

これを描いた年、阪神タイガースは、たしか優勝したと思います。(私は、野球はあまり詳しくなくて、特にどこのチームのファンということではないですけど)img532

似顔絵かきになる~黒マントの男

私は東京に来る前は京都にいて、そこではいろいろなアルバイトをやりました。ある日「似顔絵の描ける人募集」という広告を見て、社長1人だけという小さな会社に面接に行きました。

社長は私を見るなり「ボクの似顔絵を描いてみて」と言うので、出された色紙にペンを使って、5分くらいかけてリアルタッチの似顔絵を描きました。社長は「よし合格!あすから太秦(うずまさ)の映画村で、お客さんの似顔絵を描いてくれ」と言いました。

翌日から映画村の入り口横にあるコーナーで、観光のお客さん相手に似顔絵を描きました。初めての経験でしたが、似顔絵は似てなければその場で即アウトなので、1人1人に真剣勝負でした。やったのは1週間か10日くらいだったと思います。

しばらくして社長から、地方のイベント会場を似顔絵かきとして回ってくれないか、と言われ、出歩くのが苦手な私は、それで似顔絵かきをやめてしまいました。

その後、京都の印刷会社で働いていたある日のこと、会社に黒いマントをひるがえしたナゾの男がやってきました。「今日からこちらで印刷工として働かせてもらいます。E・Tと言います」とのことでした。

E・Tさんは東京からやってきたらしく、自称画家だと言いました。私より4~5歳年上で、端正な顔だちに口ひげを生やし、アルコールで肝臓がダメになっているらしく、なんでもないときに急に「グゲッ!」と言って空ゲロを吐くという、末期的症状の画家さんでした。

登場したときは黒マントでしたが、普段は作業着で、印刷の機械を動かす仕事をはじめました。時おり「グゲッ!」とやりながら…。

当時、私が住んでいた百万遍の3帖のアパートで、E・Tさんの歓迎の酒盛りをやったとき、私が描いた油絵を見てE・Tさんが言いました。「角くん、君の絵はなかなかいいよ。でも絵をやるんだったら東京に出なきゃだめだよ!」と。

私が「ハア…」とかなんとか言っていると、E・Tさんは「よし、決まりだ!オレの知り合いが練馬にいるから、そのアパートに居候(いそうろう)して、仕事と住むところを探せばいい」

こうして、私の東京行きが決まりました。

(そのころ描いたデッサンです)%e3%83%87%e3%83%83%e3%82%b5%e3%83%b3

念を込める修行

あるとき、知人から「角川書店の角川春樹社長に会えないかな」と連絡が入りました。私がイラストの仕事で出版社に出入りしているので、なんとかなるんじゃないか、と思ったらしいのですが、私ごとき駆けだしのイラストレーターが、そんなエライひとに連絡取れるわけない、と言ったのですが、その知人はふしぎなことを言うのです。

「念をこめる修行法を以前に教えたと思うけど、そのやり方で角川春樹さんあての手紙に念を込めて送ればだいじょうぶだよ」と。

たしかに以前、私はその人から”10分間、全身全霊で念を出す”という方法を教わり、練習したことがあったので、それではと「角川春樹様、私の知人がお会いしてぜひお話ししたいことがある、と申しております」と手紙を書いて、それに練習したとうりの念を込めて郵送したところ、数日して私のボロアパートの電話が鳴り、「角川春樹事務所の○○ですが、社長がお会いしたいと言っております」と連絡があったので、ビックリしました。

知人と私の2人で角川春樹さんにお会いしたのは、超高級なバーのラウンジでした。たしか角川社長専用に作られた場所だったような…。

近くのソファーに草刈正雄さんがいたのを覚えています。私が「本当に会っていただけるとは光栄です」と言うと、角川春樹さんはジロリと私を見て「君が角くんか。事務所には毎日手紙やら何やらがいっぱい来るけど、君の書いた封書の字だけが光って見えたんだよ」と言われました。

私の念のパワーが効いたのでしょうか?

知人は角川社長と、守護神だの天界だの、ふしぎな話をしていたように思うのですが、私は今まで見たこともない高いウイスキーにすっかり舞いあがってしまい、ベロベロに酔ったので、そのあとの記憶がまるでありません。

(念を込める練習は、河原の石を使いました)%e7%9f%b3%e3%80%80%e3%83%87%e3%83%83%e3%82%b5%e3%83%b3

アレイスター・クロウリー 「法の書」 

私のイラストレーターとしての初仕事が、「丹波哲郎 永遠なる霊の世界」だったため、イラストレーターになりたてのころ、オカルトっぽい仕事ばかり来て、少しとまどいました。

国書刊行会刊「法の書」もそんな仕事の一つです。「法の書」というのは、20世紀初頭にイギリスで活躍した魔術師、アレイスター・クロウリーという人が書いた奇怪な魔術書なのですが、クロウリーはそれを翻訳出版するときは「文字は赤い色で印刷し、本の表紙は画家による手書きの絵にしなくてはならない」(たしかそうだったと記憶してます…)としていて、どういうわけか私がその手描きの絵を描くことになったのです。

私は、クロウリーの肖像に、曲線と魔法陣を組み合わせて、表紙絵を描きました。きっとクロウリーさんも満足してくれていると思います。

イラストレーターになりたての20代のころ、出版社への売り込みは、本当にいっぱいやりました。実績がないので、その当時描いた油絵の写真なんかも持っていきました。あれでよく仕事がもらえたものだと思います。

それでも、ちょこちょこ雑誌なんかに2~3カットのイラストを頼まれたりして、それが印刷されて書店に並んでいるのを見ると、ものすごくうれしかったですね。%e6%b3%95%e3%81%ae%e6%9b%b8

秋山眞人さんのこと

国際気能法研究所の秋山眞人さんが、まだ静岡に住んでいたころ、知人に紹介されて会いにいきました。「丹波哲郎さんが、”霊界の空は金色だけど青だ”と不条理なことを言う」と、ある知人にこぼしたところ、その人は「じゃあ、秋山という人を紹介するから、会ってみるといい。霊界のことにも詳しいよ」と教えてくれたからです。

秋山さんは霊能者にして超能力者と聞かされて、どんなコワイ人が出てくるんだろうと、ご自宅の玄関を開けると、なんとも人のよさそうな若者が出むかえてくれました。

私が23~24歳くらいのときですから、秋山さんはまだ成人したばかりのころだと思います。

秋山さんは初対面の私にも、とても親切にいろいろ教えてくれました。でも私は正直、霊界のことより、会話のなかで自然と向かって行ったUFOの話題のほうが楽しかったのを覚えています。

そのとき秋山さんが色鉛筆で、会ってる人の守護霊(守護神?)を描くというのを知って、丹波哲郎さんにそのことを話すと、「その男に合ってみたい」となったので、ご紹介することになりました。

後日、丹波さんのご自宅に、秋山さんと私とほかに数名でおじゃましました。丹波さんは私たちにお寿司をとってくださいました。お茶など飲んで一段落したあと、秋山さんは色鉛筆を取り出すと、丹波さんのほうを見ながらスラスラと守護霊の絵を描きました。

出来上がった絵を見て、丹波さんは驚いていました。「私が外国に行ったとき、そこの霊能者に描いてもらったものと同じだ!」と。私は「へえ~、秋山さん、なかなかやるもんだね!」と思いました。

(左が秋山さん。右が私です)%e7%a7%8b%e5%b1%b1%e3%81%95%e3%82%93%e3%81%a8

丹波哲郎さんの本のイラストを描きました

始めまして!イラストレーターと画家をやってます角(すみ)しんさくです。

私は東京にやってきたころ、土木設計事務所で仕事をしていたのですが、ちょうどそこを辞めたころ、徳間書店から、今は亡き俳優の丹波哲郎さんの本のイラストを描く仕事の依頼がありました。

イラストレーターとしてやって行ける自信なんて、まるでないころで、実績もなく、どうやって自分を売り込むのかさえ分からずにいたころなので、「丹波哲郎 永遠なる霊の世界」というイラストメインの本の依頼がくるなんて、びっくりしました。

表参道にあるデザイン事務所に呼ばれて、訪れると「Gメン75」などで見ていた丹波さん本人もいて、さらにびっくり!

イラストレーターは他に2人で、合計3人。その当時私は何のことやらわからない「霊の世界」の、それも天界の場面担当にされました。

他の2人はイラストレーターとして実績のある人で(その一人は横溝正史のカバーイラストを描いている杉本一文さん)、本に載るようなイラストはまだ数点しか描いたことのない私は、ビビリまくっていたけど、平然を装っていました。

私が「丹波さん、霊界の空はどんな色にしたらいいですか?」とたずねると、丹波さんは私に「角(すみ)くん、霊界の空はまばゆいばかりの金色なんだ」と言い、続いて「それでいて、美しい青色でもあるんだ」と言うのです。

「どっちなんだ…」、私は悩みました。%e6%b0%b8%e9%81%a0%e3%81%aa%e3%82%8b%e9%9c%8a%e3%81%ae%e4%b8%96%e7%95%8c