”やさしいドイツ語”

私は20代前半、ドイツ語を勉強しようとしたことがありました。身につきませんでしたけどね。

神田神保町の古本屋でドイツ語の入門書を見つけて買いました。”やさしいドイツ語”(三修社刊 関口存男著)というものです。

この本がよかったですね。語学の入門書なのに、ドイツ的詩情に満ち満ちてました。

例文は著者の関口存男(つぎお)さんが考えたんでしょうね。法政大学や慶応大学の先生だった人ですが、もはや詩人です。

たとえば、こんなかんじ。「また春が来た(デア フリューリング イスト ヴィーダァ ダー)。小川はささやかにせせらぐ。鳥は囀(さえず)る。蝶は花から花へと舞う。天気は麗(うら)らかだ~人間は再び自由を呼吸する」ですからね。

「なんと人生の美しいことよ!人と生まれたということはなんという仕合(しあ)わせであろう!」と人生への賛歌が続き、でも「私は一人きりでいることが許されさえすれば幸福なのだ」となり、「けれども、残念ながら~仕事もしなければならない」と、なんだか気分の雲行きがあやしくなってきます。

さらには「僕(ぼく)の仕事は激働だ。おなかはしょっちゅうペコペコだ」となって、「世間は時々ずいぶん意地悪なことがあるからな」と嘆きます。

「けれどもそんなことはマアなんでもないこと」と思い直し、「僕はしょっちゅう快活だ」と上向いてきて、「まあこの紺碧(こんぺき)の大空を仰いで見たまえ」と、植木等(ひとし)チックにポジティブになり、最後は「そも人間として生まれたということは実に一大奇蹟(きせき)ではあるまいか?」と結ばれる、まあなんとみごとに詩的な例文であることだろうと、当時思ったものでした。

(”やさしいドイツ語”本文より)

”ジェットストリーム”

大阪で大学生だったころ、FM放送でよく聴いていた番組が”ジェットストリーム”ですね。

日本航空のジェット機の音とともに始まる、ちょっとおしゃれで都会的で、ノスタルジックな憧(あこが)れをつのらせる、気分を星空の彼方(かなた)に連れ去ってくれるような音楽番組でした。

インストルメンタルの曲が流れる中、城達也(じょうたつや)さんのナレーション、これが秀逸でしたね。

「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心をやすめるとき、はるか雲海の上を、音もなく流れ去る気流は」…と、胸にしみる声でいつものナレーションが始まると、岡山の田舎から出てきたばかりの大学1年生の私が、なんだか国際線で世界を股にかける、いっぱしのビジネスマンにでもなったような気分になって、「う~ん、来週のロスでの交渉は、少しハードになりそうだな」とか、「それが終わると、日本に帰って、すぐに今度はアンカレッジ経由でロンドンか…」なんて妄想して、本当におバカな学生でした。

「満天の星をいただく、果てしない光の海を、豊かに流れ行く風に、心を開けば、キラメく星座の物語りも聞こえてくる、夜のシジマのなんと饒舌(じょうぜつ)なことでしょうか」と、ナレーションは続き、同じ寮に住んでいた写真科のスガワラ君と語り合ったものでした。「スガワラ君、シジマとは本来が静寂(せいじゃく)を意味するものじゃないのかね?」。「角(すみ)君、そのとうり。そして饒舌(じょうぜつ)とは本来多弁なことのはずと思うが、この用法はまちがっているのだろうか?」。「そこだよ、スガワラ君。本来静寂をあらわすシジマが、これほどに多くの語れないことどもを語っているという、そのことへの感嘆(かんたん)をこめて、ここではあえてシジマを饒舌と表現したのだろうね」。「なるほど角君、これは、なんとすぐれて詩的な表現であることだろうね」。「そのとうりだよ、スガワラ君」と。

(ジェットストリーム CD)

”マルセリーノの歌”

イタリアの田舎の修道院の前に捨てられていた赤ん坊を、12人の修道士たちはマルセリーノと名づけて、我が子のようにかわいがって育てますが、5歳(たしか、そのくらいだったと思います)のころ、ちょっとだけいたずら好きの良き少年となったマルセリーノは、ある日、禁じられていた階段を登って、修道院の屋根裏にある等身大の木彫りの磔刑像(たっけいぞう=はりつけになったキリスト像)を見つけます。

「おなかすいてる?」。マルセリーノはキリスト像に話しかけ、台所から持ち出したパンをキリストに差し出すと、キリストはそのパンを受け取ります。

「よい子のマルセリーノよ、おまえの願いを言ってごらん」。キリストにうながされマルセリーノは、「お母さんに会いたい。あなたのお母さんにも」と願いを口にして、キリストはそれに応え、天国の母のもとにマルセリーノを連れ去って行く…というストーリーの映画、なんとも素朴な良きキリスト者(しゃ)の映画、”汚れなき悪戯(いたずら)”は、私が生まれる1年前に作られたスペイン映画ですが、この中で歌われる、”マルセリーノの歌”が、美しくも心打たれるメロディーです。

クリスマスの夜に、お楽しみいただければと思います。

ルールドの泉

私の親戚に以前”ルールドの泉”に巡礼してきた人がいて、そこでおみやげとして買ってきたマリア像の置物が、深夜に光を発しているのを見た、という話しをしてました。

ルールドはフランス南部、ピレネー山脈のふもとにある町で、1858年、そこに住んでいた14歳の少女ベルナデッタ(貧困のために学校にも通えず、読み書きもできなかったということです)が、村はずれの川の近くで薪(まき)にする木の枝をひろっていたところ、近くの洞窟の上に光が射し聖母が出現し、やがてそこから涌(わ)き出した泉によって、村人が長年わずらっていた病気が治るという奇跡が起こり、以来、ルールドの泉は病気を治す泉として知られるようになったということです。

今ではそこには大聖堂が建ち、毎年、世界から数百万人の巡礼者が訪れるキリスト教の聖地となっているようです。

聖母の出現をうけたベルナデッタは、その後、修道女となりルールドを離れますが、35歳の若さで亡くなり、その遺体は現在も、フランス・ヌーベル市・サン・ジルダール修道院に安置されていて、まったく腐敗せず、今日(こんにち)見ても、まるで安らかに眠っているように見えるという奇跡が続いているそうです。

(ベルナデッタ)

鳥と恐竜

鳥は、鳥になる前は恐竜だったって本当なんですかね。恐竜が進化して鳥になったって言うんですけど。

恐竜の中にこころざしの強いのがいて、「なんとしてもオレはあの大空を飛びたい」と願い続けて、何世代もその意志を引き継いでいって…、やがてその思いが天に通じて、腕が翼(つばさ)みたいに進化してきて…、そのときは驚いたでしょうね。

本人だって最初はまさか本当に飛べるなんて考えてなかったかも知れないですし、そんな突拍子(とっぴょうし)もない妄想を長きにわたって抱き続けるなんて、その恐竜の家系は夢想家の家系だったんでしょうね。代々(だいだい)おおいなる夢想家恐竜家族だったということなんでしょう。

人間だって、たしか中世の修道士が、自分で作った翼みたいなのを背おって、塔から飛び降りた、なんて話しを聞いたことがありますが、その人は本当に空を飛びたかったんでしょうね。そのこころざしは恐竜に負けてなかったと思うんですけどね。

この修道士の家系は、あと何代くらい飛ぼうと思い続ければ、鳥に進化する兆(きざ)しがあらわれるんでしょうか?

今でも人間の中には、空を飛びたいと願ってる人がけっこういるはずですが、今のところ、どこかの誰かの腕に、翼へと進化する兆候(ちょうこう)があらわれたというニュースは、まだ聞かないですけどね。ふしぎですね。

(サモトラケのニケ)

”雨を見たかい”

「アメリカのロックはそんなに興味がない」なんて言いながら、CCRは好きでしたね。

CCR、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルて言う長ったらしいバンド名ですが、いい曲がいっぱいありました。

そんな中でも一番好きな曲は”Have  you  ever  seen  the  rein”、日本名”雨を見たかい”ですね。胸にしみわたるような名曲です。

ジョン。フォガティーの、ちょっとしゃがれ気味の声で「晴れた日にも、雨は降る」てね、当時、アメリカ軍がベトナムに降らせていた爆弾の暗喩(あんゆ)だとも言われてましたが、私は反戦の曲ということじゃなくて、単純にメロディーとして好きでしたね。

サザンオールスターズの桑田さんが、この曲をカバーしてましたが、サビで「Have  you  ever  seen  the  rain」と歌うところのバックで刻まれる印象的なドラミングを忠実に再現していて、「ああ、この人も、ここのところのドラムが好きなんだな~」と、うれしくなったのを覚えてます。

ユーチューブで今、聴いてみても、中高生のころ聴いていたときと同じ気分が胸に満ちてきますね。あのころから40年以上の年月がたったなんて、なんだか信じられない気がします。

(雨にちなんで、学研持ちあるき図鑑”まるごと日本の季節”に描いたイラスト)

「JAPANESE FOR BUSY PEOPLE」

教科書のイラストは、そんなにたくさんじゃないけど、何冊か描きましたね。小学生の理科や、中学生の体育、英語もやりました。

ちょっと変わったところでは、著者として社団法人 国際日本語普及協会(AJALT「アジャルト」)、発行が講談社インターナショナルの、日本語の教科書ですね。

「JAPANESE FOR BUSY PEOPLE」というタイトルで、ワークブックなんか合わせると10冊以上になるもので、イラストの点数も大量だったので、やっている最中(さいちゅう)は、「この仕事に終わりは来るのだろうか?…」と思ったものでした。

ひらかなから始まって、漢字の書き順、生活や仕事など、さまざまな場面での日本語表現、物の名前などなど、本当に多岐にわたった内容満載のものでした。

本当かどうか知りませんが、アメリカの中央情報局CIAの日本担当者なんかも、この本で日本語を勉強しているという話しを聞いたことがあります。

いつだったか、私のパソコンに突然、アメリカからEメールが来て、英語で「アナタノイラストワ、ワカリヤスク、ワタシワタイヘンキニイッテイマス。アナタノイラストノファンデス」なんて内容でした。

私のアドレスをどうやって調べたのか…、CIAの人だとコワイので、簡単に「アナタノメールニカンシャシマス。コレカラモヨイイラストヲエガクヨウニツトメマス」とだけ返信しときました。

(「JAPANESE FOR BUSY PEOPLE Ⅱ」より)

 

老女と水壺(つぼ)

先日、インドの覚者、バグワン・シュリ・ラジニーシの講話集”インナー・ジャーニー”を読みかえしていると、、その”まえがき”に、詩人、キショーリ・ラマン・タンドンという人が若いころの体験を書いてました。

彼がまだ青年だったころ、彼の家の近くに住んでいた貧しい未亡人の老女が、水壺を頭に載せて水牛を連れ、川から帰っていたとき、むこうから信心深いラムババが「ラーム、ラーム」と聖なる言葉をとなえながらやって来たそうです。

老女がラムババにあいさつすると、彼は「おまえさんは生涯、水牛の世話をするだけで終わってしまうよ。おまえさんもわしのように”ラーム、ラーム”ととなえて、彼方(かなた)の世界に目を向けたほうがいい」と言ったそうです。

すると老女はそれに応えて、「ラムババ、わたしの頭の上にある水壺が見えるかい?あんたにあいさつしているあいだ、わたしの気づきはずっとそこにあったよ。だから壺はひっくり返らなかったのさ。わたしは1日じゅう忙しいが、同じようにわたしの意識はいつだって神性にあるんだよ」と言ったということです。

青年キショーリはそれを聞いて、たいへん驚いたそうです。

この老女は市井(しせい)の覚者かもしれませんね。そして、日常の中で常に自らの内に気づきを持ち続けることこそが、神性への道なのだということを、道のわきでこの事件を目撃していた若き詩人に示して見せたのかも知れません。

火星の人面岩

1976年、NASAの火星探査機、バイキング1号が、火星のシドニア地区で撮影した写真に、「人面岩」と呼ばれる巨大な石像が写っていたのは有名な話しです。

後に(1998年)同じ場所を撮影した火星探査機マーズ・グローバル・サーベイヤーの画像には、崩れた丘のようなものしか写ってなくて、「人面岩」は「自然の地形が、たまたま光と影のトリックで、そのように見えただけ」とNASAは説明したそうですが、これは、このようなものの存在が明らかになっては困るスジからの圧力で、画像をデジタル処理して発表したフェイクだと私は思いますね。

「人面岩」はタテ2.6Km、ヨコ2.3Km、高さ460mという巨大さで、そのみごとな人の顔の形の目にあたる部分には、瞳まで存在していて、しかもそこからは涙が流れているように見える、という証言もあるそうです。

でも、この話題にあんまり深入りして、そのスジから私に圧力がかけられても困るので、ここでは私が高校1年のときに描いた、「人体岩」のことを紹介したいと思います。

ある夏の夜、高1の私は黒曜石でできた人型の巨石のイメージを鉛筆画で描き上げ、それを「ダムダス」と名づけました。

どうしてそんな名前にしたのか覚えていませんが、その名前は、絵を描く前から決まっていたような気がします。

火星の「人面岩」にも、本当はちゃんとした火星的な名前があるのかもしれませんね。

(鉛筆画 ”ダムダス”)

”Black Sabbath Vol 4″

お正月に聴く曲といえば「春の海」とか、お琴の曲というのが一般的でしょうが、私がお正月といって思い出す曲は、イギリスのロックバンド、”ブラックサバス”のアルバム、”Black Sabbath Vol 4″ですね。

ブラックサバスは、訳せば「黒い安息日」ですから、おおよそお正月のめでたさとはかけ離れた存在です。

それはよくわかっているのですが、私はこのビリビリくるハードロックアルバムを聴くと、どうしても気分はお正月となってしまうのです。

そのココロは?といえば、今を去ること四十数年前、私が高校生だった時のお正月に、買ったばかりのこのLPレコードを、めでたい日の箏曲代わりに、新年の朝からヘビーローテーションで聴きまくっていたため、それがパブロフの犬的な条件反射となってしまい、いまだにお正月の曲イコール”ブラックサバス Vol 4”というイメージが、がっちりと私の中にかたまってしまっている、というのがその理由です。

「なるほど、そういうことなら」と、お正月に腰をすえてこれを聴いてみると、案外、新年最初にこんな曲も悪くないな、と思えてくる人が出てくるかもしれません。

特にこのアルバムのA面1曲めの「Wheels of Confusion」なんか、後半がちょっとドラマチックに盛り上がっていて、「新年をことほぐ、なんて気分に、案外ピッタリとよりそってくれるじゃないの」と思ってしまう人もいないともかぎらないです。

(”Black Sabbath Vol  4″ジャケット)