油絵の画面

絵具の中で最も堅牢と言っていいのが油絵具でしょうね。

初期フランドル派の画家、ヤン・ファン・アイクによって描かれた絵画は、600年の年月を経た今でも、美しさを保ったままですからね。

リンシードオイル、ポピーオイル、テレピン油などで溶かれた絵具が酸化して作る堅牢な皮膜は、描かれた絵を永遠のものとしてくれるという安心感があります。

ただし、この堅牢さはちゃんとした手順で描かれたものでないと保証されないという面があり、特に近代の油絵によくある、気分のままに厚く塗り重ねたような絵の場合、そして特にそれが、下地に描いたものが充分に乾かないうちに上に塗り重ねられたりしていると、乾きによる収縮の速度の違いから、画面にヒビが入るという問題が起きて、絵は堅牢なものとは言えなくなってしまいますからね。

でも、ゴッホなんかの絵は、激情に駆られて描かれているようでありながら、絵具にたっぷりの溶き油を使っているので、画面の状態は大変に安定しているそううですね。

また、安易に素朴派などと呼ばれるアンリ・ルソーの画面も、”油彩画の技術”の著作で有名なグザヴィエ・ド・ラングレ氏によりますと、「ダヴィッドから現在に至る時代を通じて、これ以上に典型的な画家のメティエを見出すことはむずかしい」というほど、その技法は理にかなったものであるようです。

いつまでも残る状態の良い油絵というものは、それなりに気をつかって描かれているものだ、ということですね。

(ヤン・ファン・アイク作 ファン・デル・パーレの聖母)

筆立て

仕事机の上にはいつも、水彩で着色する用に、水入れや筆や絵皿なんかが並んでますけど、筆の置き場所がどんどん変わります。

鉛筆やペンで仕事してるときはいいんですが、透明水彩で絵を着色してるとき、面相筆(細描き用の筆)を何本も使うので、それをちょっと置いとくときは、水入れの上に横にして置き、また手に取って使うなんてことを何度もやっていると、筆が転がって横に落ちたり、誤って手がかかって水入れの中に落ちたりするので、「これはいかん」ということで、ガラスのコップを買ってきて、そこに筆を差したりしてたんですけど、そうすると今度はハサミだのボールペンだの赤のマーカーだのも、つい入れてしまい、なんだかコップが手ぜまになり、手軽に筆が差せなくなってきます。

しばらくはガマンしてますが、結局また別のガラスコップを買ってきて、それに筆を差してると、そこにもまたカッターナイフやピンセットや色鉛筆なんかを入れてしまい、なんだか手ぜまになる、と…。

こんなことばかりやってると、コップは最初ひとつだったのが、、現在では3つ、それ以前にじつは小さなブリキのバケツみたいなのも使ってたんですけど、それなんかも含めると4つも筆差しが机の上にあるという、なんだか手ぜまなことになってます。

自画像

いま、絵本の仕事してまして、「その別冊で作者紹介の欄があるので、角さん、自分の似顔絵描いてください」なんて依頼がありまして、いままで伝記ものなんかで、いろいろな有名な人の似顔絵描きましたけど、自分の顔描くなんてのはなかったので、戸惑いましたね。

人さまにお見せするような顔でもないですし、髪なんかだいぶ薄くなってますし、しげしげと鏡で顔を見ると「いや~さまざまに劣化してるな~」と…。

できればお断わりしたかったですけどね。でも、依頼された以上、仕事ですからね、描きましたけどね。

ただ、このままで描くと、本当にげんなりするオッサンの顔が出来上がるだけなんで、ちょっとキャラクター化して、なるべく見る人が気持ち悪くならないものにしなくちゃなと思って、いろいろと手を加えましたね。(絵本はまだ発売前なので画像はここには載せられないですが。)

「正面からのワンカットと、仕事してるとこのカットもお願いします」なんて言われて、自分の横顔自撮りして、それ見ながら描いたりもしましたね。

本当は飼ってないのに、飼い猫っぽいのを横にワンポイントで描き入れたりして、なにしろ絵本の別冊ですからね、子どもさんが見て「カワイ~♡」なんて言ってもらえるように、苦心しました。

画家のレンブラントは、自画像いっぱい残した画家らしいですけど、自分を描くの楽しかったんですかね?

(昔、伝記ものに描いた肖像)

ベートーヴェン8番シンフォニー

ベートーヴェンの5番シンフォニーは、安易には聴けないですね。

まあ、私の場合、聴くとすればコンサートホールでなく、自宅のCDでですけど、若いころ本当に一途(いちず)に傾倒してたので、いざ聴くとなると身構えてしまいます。

若いころ聴いたときと同じように、意識が高みへと昇りつめ、法悦にも似た感動を、あのころと同じように得られるだろうか、という心配もちょっとあり、なおさら安易には聴けなくなってますね。

だからテレビなんかで5番の冒頭が、おちゃらけた感じで使われてたりすると、こういう使い方した関係者のとこに出かけて行って、殴り倒してこよう、なんて本気で思いますね。

私が大統領だったら、そんなふざけた使い方を許すテレビ局には重加算税をかけてやりますよ。

まあ、それはともかく、そんなワケで、ベートーヴェンの5番はなかなか聴く機会がないのですが、そういう思い入れがあまりないぶん、少し気軽に聴けるのが、作品93の8番シンフォニーです。

これは5番とはまた違ったふしぎな高揚感があって、「さすがベートーヴェン様は偉大だな!」と思える作品ですが、副題(5番でいうところの”運命”など)がついていないこともあって、あまり知られてないので、へんにテレビなんかでBGM的な使われかたをしないので助かりますし、こんなこと言ってはなんですが、これからもあまり人に知られないままでいてほしいな、なんて思う作品ですね。

(ベートーヴェン交響曲全集 指揮オットマール・スイットナー ベルリン・シュターツカペレ)

絵と現実について

画家アンリ・ルソーは、密林風景を描くとき、その濃密な原始の森の空気に胸苦しさをおぼえ、「新鮮な空気を吸うために部屋の窓をすっかりあけ放たなければならなかった」らしいです。

いいですね、ルソーにとって絵画は絵画以上のものであり、「所有し、その中で生きたいと心から願った」世界であり、その「夢想と現実のあいだに、確たる一線はない」ということなんでしょうね。

描かれた平面世界は、ルソーの中では平面ではなくて、その奥へと入って行けるふしぎな現実となっていたということなんでしょう。

ここから、私のことで恐縮ですが、私は子どものころ、社会だか理科だかの教科書に「冬じたくをする家」なんていう挿絵を見つけると、さっそく、その絵の中の壁際に積んである薪(まき)を、もっといっぱいあるように増やして描きこんだり、吊るしてある大根の量を増やしたりして、つまり、そうしてラクガキすることで、絵の中での冬への備えをより万全にして安心する、なんてことをやってましたけど、これなんか、広い意味で言えば、子どもの私にとっても、絵の「夢想と現実のあいだに、確たる一線はない」ということのあらわれだったのかもしれませんけどね、どうなんでしょうね。

まあ、ただ単に「授業に集中するのが苦手だった」ということだっただけかも知れませんけど。

(アンリ・ルソー ”エキゾチックな風景・猿とインディアン”)

「思い出のセレナーデ」

若いころはポップスやロックばっかり聴いていたのに、歳をとると演歌を聴いて、しみじみ胸にしみるな~なんて言いだす人がけっこういるようですが、私はそんなふうにはならなかったですね。

演歌には興味がないんですが(演歌好きの皆様、申し訳ありません)、でも好きな曲はあって、”津軽海峡冬景色”と”北の宿”は昔から好きでしたね。まあ、それをことさら公言することはなかったですけどね。

ところが「歳をとるとしみるな~」現象といいますのは、私の場合、昔の歌謡曲に対してはけっこうありますね。

たとえば ”思い出まくら”(小坂恭子さん)とか、藤圭子さんのカバーした ”メモリーグラス” なんてのも、いま聴くとなんだかいいですね。

私は若いころ、アイドルにはほとんど興味がなかったんですけど、山口百恵さんの”秋桜(コスモス) ”なんてのは、ヘンに胸に迫って来ますね。別に私にもうすぐ嫁に行く娘がいるわけではないんですけどね。なんでしょうね。

天地真理さんなんてのは、当時あんまりテレビ見てなかったもので、ちっとも気にならなかったんですけど、あるとき、若い女性シンガーが、ギターを弾きながら”思い出のセレナーデ”というのをカバーして歌っているのをラジオで聴いて、「なんだ、いい曲じゃないの」なんて思って、最近、ユーチューブで当時の天地真理さん本人の歌っている映像を見て、「なるほどね、これは売れたワケだわな」と思いましたね。

まあ、私が歳をとった、てこともあるんでしょうかね。

ボクシングWBSSバンタム級初代王者に井上尚弥選手!

いやー、井上尚弥選手、勝ちましたね!!

すごい試合でした。

こういうのを死闘というんでしょうね。

対戦相手のノニト・ドネア選手もすごかったです、さすがです。

途中、井上選手がまさかノニト選手のパンチでぐらつかされたり、ボクシング人生で初めて目の上から出血して、鼻血も出てしまって、私は見ててちょっと試合を投げかけましたね。

「まさか、こんなことになるとは…」なんて、見ながらヒザから力が抜けていくような気がして、ツライ気分がミゾオチから全身に広がりかけました。こうなると流れは大体相手のほうに行ってしまうもんですよ。

「もう見るのやめようかな…」なんて、ちょっと思いましたね。いたたまれなかったんです。

ところが、そんな情けない私などおかまいなしで、ここからが井上選手のすごいとこでしたね。

鼻血で呼吸もキツイだろうに、井上選手アドレナリン出まくりで、バシバシパンチが出ましたからね!

強烈な左ボディーでダウンを奪って、これで試合終了かと思いきや、ノニト・ドネア選手もあそこから立ち上がってくるという…。

12ラウンド終了後、2人が抱き合ったとこ見て、私は思わず一人で拍手してましたね。

いいもの見せてもらいました。

2人とも男のなかの男でした。

「私」

仕事の打ち合わせなんかで話すときは、自分のことを「私」と呼びますね。「それじゃ、イラストのイメージは、私のほうで考えてみます」とかね。

でも、内心では少し「なにがワタシだよ」と思っていて、一人でもの思うときは、自分のことを「ワタシ」なんて呼びませんね。

普段の内輪の会話でも、そんなテレビのニュースキャスターみたいな言い方はしなくて、「ボク」とかなんとか、そういう呼び方になりますね。

一般的には「オレ」が流通しているようですけど、私の場合、「オレ」は使わないですね。身内との会話でも「オレ」ということはないですね。

これは、育った時代や場所によっても違いがあるように思います。

我々が子どものころは、テレビでやってたアニメ ”鉄人28号” なんかで、鉄人を操縦する正太郎くんが「ボクは」なんて言ってたのが、そのまま定着して、子どもだったボクたちは、「私」のことを「ボク」と言ったのかな、なんて自分は思いますね。どうなんでしょうね。

私は高校生のころ、自分の呼称は「ボク」でしたけど、相手を呼ぶとき、名前以外だとどう呼んでいいかわからなくなって、思い悩んだ結果、「おぬし」と言ってましたね。

「今日、帰りにレコード店に寄って、レッドツェッペリンのLP買うけど、おぬしも一緒に行かない?」てなかんじでした。

「武士かよ!」て言われてましたね。