紙の雑誌

美容院の待合室で読むのは、最近は紙の雑誌じゃあなくて、アイパッド渡されて、その画面で雑誌読むんですってね。

ラジオで女子アナが言ってました。

こうやって、いろんなことがどんどん電子化されていってしまうんでしょうね。

そのうち、紙の本を読むなんてことも、あんまりなくなってしまうかも知れませんね。

最近じゃ、文字も手書きしない人が多いですよね。

そう考えると、現代人より昔の人のほうが、縄(なわ)を綯(な)ったり、刃物研いだり、破れた服を糸と針でつくろったりと、いろんな面で器用だったのと同じように、これから先の人類というのは、われわれが普通にできたこと、たとえば文字書いたり、リンゴの皮むいたり、なんてこともできなくなってしまうかも知れませんね。

昔は馬を乗りこなしてたのが、今は馬なんて乗れなくて、車を運転していて、でも将来は人は自動運転の車の中で座っているだけなんてことになって、身体を使うという面では、人間はだんだんと退化していくということになるんでしょうかね。

まあ、話がそれてしまいましたけど、私はアイパッドで雑誌とか本を読むなんてまっぴらですね。

私は紙の本めくって読んで、鉛筆で文字書きますね。たぶん、死ぬまでそうしますね。

(紙の雑誌、”女性セブン”7月15日号に、『なぜ新聞、テレビは伝えないのか ワクチン接種後死亡350人超「年齢」「性別」「持病」全リスト』という特集記事載せてましたね。                            注;7月21日時点では、ワクチン接種後の死者数は751人まで増加してます⦅厚労省副反応検討部会報告⦆)

AI全体主義

”グレート・リセット”という書籍で有名な、ダボス会議(世界経済フォーラム)の主宰者、クラウス・シュワブという人は、今回のコロナパンデミックは「かつてない、人類のコントロールへの、最初の大きな一歩である」と言ってるそうです。

この人が提唱しているのは、人間の脳や皮膚にマイクロチップを埋め込む「グローバル・ヘルス・インプラント」というもので、これが全世界に普及すれば、監視カメラなど必要なくて、すべての人の位置情報や、すべての個人情報を管理できるので、これによって持続可能な未来、理想的社会が実現できるというのですが、本当なんですかね。

この計画は、現在の地球の人口と、その増加速度が人類にとって致命的であるため、このままでは近い将来、人類は食糧不足による対立から、世界戦争を経験することになる危険性があり、それをくい止めるのが、このシステム導入の目的だというんですけどね…。

そして、このクラウス・シュワブと組んでいる、もう一人の有名人が、ビル・ゲイツだということです。言わずと知れた、マイクロソフト創業者にして、世界トップの大富豪ですね。

この人は、「DNAワクチンによって、われわれは世界の人口を最も速くコントロールするべきだ」と言っていたという話しが伝わってますが、これは「ワクチンによって子どもの病気や死亡が減ることで、多産多死でない世界が実現するから」という発言が曲解されたものだという話しもありますね。

まあ、だれが何を語り、それがどう解釈されて伝わっているのか、この情報過多な時代にあって、私のような者にはなかなか真実が見極められませんが、とにかく、人類の未来を救済するためという呼びかけのもとで、「AI全体主義」や「監視資本主義」などというシステムが、それとは知らぬうちに導入され、人の自由が損(そこ)なわれるような社会が現実化してしまわないことを、私は願わずにはいられませんね。

 

マクドナルド&小学館の図鑑NEOコラボ企画イラスト

マクドナルドと出版社の小学館がコラボした「ずかん 小学館の図鑑NEO マクドナルド50周年記念 クイズつき」という企画の中のイラストを描きました。

小さなイラストですけどね。ハッピーセットというのを買うと付いてくる冊子の中の絵です。

7月9日からリリース始まってるとのことですけど、私の住んでるところにはマックがなくて、車で30分くらいかかる津山市に行くしかないわけですけど、ちょうど市内の画材屋さんにスクリーントーン注文していて、それが入荷したという連絡を先日もらっているので、受け取りに行くついでに寄ってみようかと思ってます。

マクドナルドなんて、久しぶりですね。もう何年(何十年?)も行ってないですね、私は。

私はフィレオフィッシュが好きなんですけど、ハッピーセットにフィレオフィッシュ付いてるのはあるんですかね?

まあ、なければ、ハンバーガーあるいはビッグマックでもいいんですけど、それとフライドポテトのLと、アイスコーヒーかなんかたのんでみようかな、なんて思ってますけどね。

(マクドナルド50周年記念の冊子と、描いた原画の一部)

眠りながら考える

朝、目が覚めかけてたとき、なかば夢の中で、なぜか漢字の「練」という字のことを考えてましたね。

モーローとした頭で、「練」というのはどんな字だったかな~、としきりに考えていて、「糸へんだったんだけど、右側はなんだったかな~」なんて思いをめぐらせていて、「東のように思うんだけど、東という字は「れん」という音と関係するような要素なんてないから、違うんじゃないかな」とも考え、「糸と東を合わせても『れん』にはならないんじゃないか? むしろ『連』のほうが『れん』の音だし、糸へんに『車』だったんじゃないかな~」なんて、そのときは本気でそう考えていたのを覚えてますね。

「でも、糸へんに車は、なんだかどうも違う気がするなあ。『れん』は練習の練だから、なにか『ねっている』ような感じの漢字なんじゃなかろうか。ねってるような見た目の字はなんだろうな…」なんてね、よくわからないことを長々と考えてましたね。

そして、その意識の端で、「実際に紙に書いてみれば、わかるんだけどな」とも考えていて、「でも、今は眠っているんだから、書くなんてことはできないな~」なんて、早朝5時くらいですかね、考えながら眠っていましたね。

(昔、イラストを描いた日本語検定対策の書籍。東京書籍刊)

梅ジュース

うちの庭のわきに竹やぶがあって、その奥のほうに梅の木があるんですけど、今年はその枝に梅の実が山のようについてたんですね。

今まで、こんなに実がついたことはあんまりなかったんじゃないか、てくらいの量で、これはなんとかせねば、ということになり、YouTubeで「梅ジュースの作り方」というのを見つけて、さっそくやってみました。

まず、ホームセンターに行って、大きめのフタ付きガラス瓶を買ってきて、中を煮沸消毒。それから梅の処理に取りかかりました。

梅の実は、ヘタを竹串でえぐるようにして取らないと、そのままだとえぐみが出るといってましたが、うちの梅は熟れて黄色になりかけていたので、ヘタは自然に取れてました。

実を水洗いした後、水分を切ってから冷蔵庫の冷凍室で凍らせ(こうすると、梅の実の繊維が破壊されてエキスが出やすくなるとのこと)、それからガラス瓶に移し、実と同量の砂糖を入れて作業完了。

1週間くらい寝かせると、実から水分が出てきて、、砂糖が溶けるので、ときどき瓶を振って全体を混ぜるようにするとのことですが、現在5日目です。

ちょっと試飲してみましたが、うまかったですね。

梅ジュース原液と水を1:1で割るということで、それに氷を入れると、梅独特の酸味の効いた、初夏にぴったりの爽やかな味でした。

(動画で説明してたのより、砂糖は少なめにしてみました)

 

AIアルゴリズム

朝、新聞を見てたら「英国の銀行で働くスワガタム・センさんは『朝起きたらまず、スマホで興味のないサイトを開く』という習慣があって、その他にも『四六時中、好きなサイトと嫌いなサイトを交互に見る』という記事がありました。

そのねらいは、AIアルゴリズムをだますこと、だそうです。

私の場合はパソコンですけど、同じようなことをやってましたね。この人ほど四六時中ではないですけどね。

イラストを描くのに資料が必要になって、たとえば「電動ドリル」なんてのを検索してると、広告欄に電動ドリルの宣伝が表示されたりするのを見て、「AIごときに、こっちの興味の対象を特定されてたまるか」なんて思って、それ以来、時間あるときに、わざとまったく興味のない対象を検索したりして、こちらのパソコンを勝手にのぞき見てるAIをあざむいてやることにしています。

AIなんて電子部品のかたまりのくせに、最近いやにのさばってますよね。

個人情報をどんどん収集して、ビッグデータとか言って、調子に乗ってますけど、こっちは生粋(きっすい)のアナログ人間なので、ビッグデータだろうがビッグダディだろうが、そんなのまるで知ったことじゃないってことですよ。

でもまあ、とか言っておきながら、YouTubeなんかで音楽聴いてると、まったく知らなかった曲がおすすめとして流れてきたりして、そんな中に気に入る曲があったりすると、「ま、これはこれでいいんじゃないの」となって、AIの恩恵に浴しているという、なんといいますか、締まらない話しなんですけどね。

生家のこと

私は子どものころ、お城のような家に住んでたんですね。

と言うと、大豪邸かなにかを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょうが、じつはその逆で、古い和室の8帖2間にトイレ(くみ取り式)があるだけの、台所も何もない家だったんですけどね。

その和室の片すみにプロパンガスのタンクとガスコンロがあるだけのスペースが、うちの家の台所で、私が生まれてから、高校生になるくらいまで、母親はそこで朝、昼、晩と料理を作り、その和室に置かれたちゃぶ台で、家族が食事をしてました。

風呂はそこから庭を横切った先に、風呂場だけの建物があって、そこにある五右衛門(ごえもん)風呂に、父親が井戸からくんできた水を入れて、薪(まき)を燃やして沸(わ)かしてました。

でも、子どもの私はその家を「お城のようだ」と思っていたんですね。

私が生まれる前は、庭の中央に大きな母屋があったらしいんですけど、私の生まれたときには、それは取り壊されて広い空き地になっていて、そこには野菜なんかが植えられてましたね。

生活してた8帖2間の家は、本来はその母屋の離れで、お茶会でもするときに使うような、およそ実用とはかけ離れた建物で、白壁に朱(しゅ)塗りの柱のある、ちょっと宮殿ぽいと言えば言えなくもない作りのものでした(色は剥(は)げて全体が傷んでましたけどね)。

それが、石垣のある高い場所に建っているものですから、すぐ下を通る細い県道を見下ろして、子どもである私は、「うちはお城みたいだな~」なんて思っていたんですよね。

貧しい家庭でしたけどね、でも、そのころは日本の田舎の村なんて、まわりもみんな貧しかったので、自分の家が特に貧しいなんてことは思ったことは、あんまりなかったですね。

なので、子どもの私はその家で、まるで天上の楼閣にでも住んでいるような気分で、障子(しょうじ)のむこうに広がる山々や、下の道を行く人たちを眺(なが)めて、満ちたりた気分で生活してましたね。

(生家は今は使ってなくて、物置きのようになってます)