「ミステリーストーン」

小学生のころ、河原の石や、道ばたに落ちているなんでもない石をひろい集めていたことがありました。

灰色の石の表面に白くまっすぐなスジが入っているとか、キラキラ光る小さな石英の結晶が見えるとか、そんなちょっとしたことが、ものすごく貴重なもののように思えて、たまに金色に光る黄銅鉱のまざった石でも見つけようものなら、本物の黄金でも見つけたようにワクワクしたものでした。

大人になると、石に対するそうしたワクワク感は消えてしまいましたが、「ミステリーストーン」(筑摩書房刊)という本には、大人になっても石への情熱を持ち続け、永遠に石に魅せられてしまった人たちの、ちょっとふしぎな話しが書かれています。

禿(は)げ山でトパーズを掘り当て、よろこびのあまり雪の降りしきるなか、ひとり舞い踊る人の話し、宮沢賢治の「石ぐるい」のこと、石にまつわる世界の伝説のほか、石についての奇妙な話しがいっぱいです。

そのひとつに「蛇頂石(じゃちょうせき)」という名のふしぎな石の話しがあります。

昭和のはじめ、京都の鳩居堂で実際に販売されていたものらしく、効能書の写真まで載せてあるのですが、それは小さな黒い楕(だ)円形の石で、ムカデなどにかまれたところにペタッとはりつけると、痛みが消え、毒を吸い出してくれるということです。

使った後に水に入れておくと「プクプクとかわいらしい小さな泡(あわ)が出て~毒をはき出し」、石をふいてしまっておけば、また使えるという「魔法の石」だそうです。

こんなの今でも売ってたら、私は買いますけどね。

 

消しゴムのカス

世界の中で、単なる偶然で起こることなどない、といわれますが、ま新しい用紙をひろげて、さて、と気合を入れて、イラストの最初の線をコピックのペンで描いていると、ちょうどその線の通る用紙の真下に、小さな小さな消しゴムのカスがあって、線がボヨンとはねて、微妙に曲がってしまいました。

ここはキレイな直線じゃなければいけないところで、このほんの小さな小さな消しゴムのカスでイラストの描き始めがだいなしです。

このA4の用紙の全面積の何万分の1、いや何百万分の1の小さなカスが、よりによって、これから描こうとする線の、そのちょうど真下にあるなんてことは、確率的には、本当に何百万分の1以下であるだろうし、カスはそこじゃなく、ほんの少しずれた別の場所にあったってよかったワケで、それがまさにそこにあって、イラストの描き始めの、だいじなペンの通り道の、その真下にあるなんて、これはイラストの仕事の邪魔(じゃま)をしてやろうとした小鬼のしわざか、はたまた私の乱れた気が引き寄せたプチ災難か…。

なんてことを考えたりもしましたが、まあ、現実の話しとしては、イラストを描くまえに、よく注意して、机の上のゴミをフウッとひと吹きしてから、仕事にとりかかればよかったというだけのことなんですけどね。

「カーマ・スートラ」

”カーマ・スートラ”とは古代インド、バラモンの聖賢、ヴァーツヤーヤナによって書かれた「愛の教典」です。

「薬草の知識のない医者、数学の知識のない勘定方(かんじょうがた)、性学の知識のない既婚者━そういう人々は無益な存在である」というわけで、愛と性についての実践的探究をまとめたこの書物の最初は「はじめに、万物の主は男と女を造りたまい、10万章からなる聖訓の形で、ダルマ、アルタ、カーマに関して彼らの生活を規制する掟(おきて)を定められた」とあり、ダルマは「法則」、アルタは「技芸、金銭を獲得し保持すること」、そしてカーマは「五感の働きに、心と魂の協力を得て対象を楽しむこと」とされていて、つまり”カーマ・スートラ”とは五感で楽しむことの教典というわけです。

その内容は性的技法から、痴話(ちわ)げんかの時の所作まで、じつにこまかく書かれていて、興味深いです。

ドイツの哲学者ニーチェは、「善悪の彼岸」という本の中で「キリスト教はエロスに毒を飲ませた。エロスは死にはしなかったが、退廃して淫乱になった」と書いてますが、このインドの教典”カーマ・スートラ”を読んでいると、世界が「退廃して淫乱」になる以前の、性についてのおおらかさといったものが感じられます。

(”魔法の夜 歌う魚” 油絵 制作途中続き)

「生命を支配する陰陽の法則」

MRT良法(ブログ2016年10月26日で紹介)を主宰される内海康満先生の書かれた本、”生命を支配する陰陽の法則”(徳間書店刊)は、実に爽快な書籍です。

私はこの本を宗教書と呼びたいくらいですが、内海先生は宗教という言葉を好まれないので、そういう呼び方はしないでおこうと思います。

そして、この本が人の性(SEX)について真正面から語っているものだという点も、これが宗教書の範疇(はんちゅう)に収(おさ)まりきらないものと感じるので、そういう意味でも、私はこの本を宗教書と呼ばないでおきます。

「人間の最大の罪とは、性と陰陽の交わりを、穢(けが)らわしいもの、不潔で下品なものとしてとらえているところにある」とし、「男女が求め合うのは、ひとつだったものがふたつに分かれ、またひとつに戻ろうとしている」からで、その真の意味は「神を識(し)るため」であり、「神なる自分の本体を識るということ」であり、「自分自身をよく識るには、自分以外のものを通して識るしかない。他人がいるから自分というものがわかるのだ。したがって自分以外のすべての人々は自分を識るために存在しているということになるが、もっともそれを識らしめてくれる存在こそが異性というものなのである」と書かれています。

性的な話題はなかなか扱(あつか)いづらいものだと思いますが、この本は、そんな気づまり感などものともせず、性を通じて人間の本質にせまる内容となっています。

先生は若いころは兵庫県にある通称(つうしょう)地獄道場と呼ばれる空手道場で修行された方(かた)で、その稽古(けいこ)は熾烈をきわめ、時に血尿が出るほどだったそうですが、そんな武道家然とした先生の語られる性についてのお話しだけに、私は思わず威儀(いぎ)を正して読ませていただきました。

(”魔法の夜 歌う魚” 油絵 制作途中のもの)

「エイブラハムに聞いた人生と幸福の真理」

アメリカの成功哲学の本によくあるようなこと、つまり「積極的にポジティブに」ものごとをとらえるようにすると、人生の成功者になれるという話しを、私は鵜呑(うの)みして全面的に信じているわけではないですね。

そうかといって、ポジティブな考えかたをすることは、まったく意味がないというふうにも思いません。

若いころは米国の著述家、ジョセフ・マーフィーの「成功哲学」や、ポール・J・マイヤーの自己実現プログラムに熱中したこともありましたが、元来(がんらい)が内向きで、アメリカン・ロックより、イギリス・プログレッシブロック好き、太陽よりも月を、真昼の快活さより夜のあやしげな闇に惹(ひ)かれる、という性格のため、ともすると思いの傾向はマイナーな方向に流れやすいです。

でも、そうかといって、それでは逆に人生をポジティブにとらえ続けていれば、ものごとすべてうまく行くかというと、それほどこの世は単純だとも思っていません。

人間にはどうすることもできないこと、というのもやっぱりあるでしょうし、シェークスピアが書いているように、「ホレイショーよ、天と地のあいだには、おまえの哲学では及びもつかないことがあるのだ」というのも本当だと思いますしね。

ただ、ちょっとしたことでも、自分の意識をポジティブな方向にもって行くというのは、やはり人生の助けになると私は思いますね。

米国のチャネラー、エスター・ヒックスが、著述家、ウエイン・W・ダイアーとの共著というかたちで出版した「エイブラハムに聞いた人生と幸福の原理」(ダイヤモンド社刊)は、そんなポジティブ思考へのヒントに満ちた素敵な本です。

それによると、「もし、あなたがあることをわずか17秒間考えると、”引き寄せの法則”によって、それと似たような思考が引き寄せられる」ということで、それが続くことにより、その思考は「習慣」となり、やがて「信念」となって勢(いきお)いがついてしまうので、自分が不快な考えを始めたと気づいたら、すぐに意図的に、気持ちがホッとする心地よい思考を17秒間続けるようにしてみましょう、という、ほんのちょっとしたコツ、心のあり方へのアドバイスなんかが書かれていて、私は元気づけられますね。

ラビンドラナート・タゴールの感謝

高校生のころ、同じクラスに瀬島くんという、仲のいい友だちがいて、勉強ができたものですから、テスト前に私は、試験に出そうなポイントなんかを、よく教えてもらってました。

瀬島くんは私に教えたあといつも、「ありがとうは?」と言って、私の顔を見るのですが、それは、教えてやったから感謝しろよ、という気持ちからではなく、彼は子どものころから家庭で、何かしてもらったら必ず「ありがとうは?」と親から言われて育ったので、それが小さいときからの口ぐせみたいになっていたのと、親密な友だち間ならではの、シャレっけもあったからだと思います。

そのころの私は、高校生で未熟だったこともあり、人に感謝するのは、なんだか自分が負けたような気がするというひねくれ者で、感謝のできない人間でしたが、瀬島くんにうながされると、なんのためらいもなく「ありがとう」と口にできたものでした。

インドのマスター、バグワン・シュリ・ラジニーシは、その講話の中で、人間に必要なこととして、身体のレベルでは、健康であり暴力的でないこと、心理的レベルでは、ゆったりとして喜びに満ちていること、魂のレベルでは感謝の念を持ち「ありがたくあるべきだ」といった意味のことを語っています。

そして、ラビンドラナート・タゴール(インドの詩人・思想家)という人の話しとして、死が訪れる2日前、彼は「神よ~私には受け取る価値もないのに、あなたはこの命を私に授(さず)けてくれました。私には呼吸する権利もないのに~呼吸を授けてくれました。そして、私に美や至福の体験を授けてくれました。それは私が努力して得たものではありませんでした。私は感謝しています。あなたの恩寵(おんちょう)に圧倒されています」と言ったと語っていて、「この心、この感謝の念が、生のあらゆる側面にあるといい」とアドバイスしています。

(油絵「海辺の貝殻」)

山下達郎with鈴木英人

山下達郎さんの曲をBGMにして仕事をしようと、ユーチューブで”山下達郎-「For You」with  EIZIN SUZUKI-鈴木英人”を流していたら、静止画像で次々にあらわれる鈴木英人さんのイラストが美しくて、そっちばかり見てしまって、仕事になりません。

アメリカンで、ポップで、緻密(ちみつ)に描きこまれた影と光と色彩が、みごとなハーモニーを奏でていて、鈴木さんのイラストを見ていると、気分爽快というかんじになってきて、そこに山下達郎さんのボーカルですから、ここはもう仕事は一旦(いったん)休憩にして、日に当たりながらバドワイザーの缶をプシュと開けて、お気楽な夏の日を満喫しようか、なんて思ってしまいます。

まあ、私は最近、アルコール飲まなくなってしまったので、バドワイザー、プシュはないですが、かわりにノンアルコール”一番搾り”か、ファンタグレープでも飲みながら、西海岸のつもりで風に吹かれてお昼寝なんてのも、たまにいいんじゃないか、と思いましたが、外に出たら強烈に蒸し暑く、西海岸どころか、日本はもう亜熱帯になってしまってるんじゃないか、ということで、先ほどの気分もみるみるしぼんでしまい、気をとりなおして、熱いほおじ茶を入れて仕事机にむかい、ちょっと残念なまじめな気持ちになって、「さて」と、さっき中断したイラストの仕事を始めたというわけです。

BGMは山下達郎さんでなく、バロック音楽に変えました。

 

「ほんとうの空色」

ハンガリーの詩人、バラージュが書いた童話に”ほんとうの空色”というのがあります。

貧しい少年フェルコーが、友だちから借りた「あい色」の絵の具をなくしてしまい、こまっていると、白いひげをはやした用務員のおじさんが、野原いっぱいに咲いている大輪の青い花をつんで、絵の具を作ることを教えてくれます。

「この花は、いつもお昼の鐘が鳴ると咲くんだよ。だがね、たった1分間しか咲いてないのだ。いそいでつまないとまにあわないよ」。

そして、その花から作った絵具は「ほんとうの空色」という名で、フェルコーがそれで空を描くと、そこにはほんとうの空があらわれ、青い空には雲が流れ、夜になるとそれは夜となって星が輝きはじめるというものだった、というお話です。

こんな絵具があったらいいだろうなと思いますね。

まあ、この話しにあるように、描いた空に本当に雲が流れ、夜になると夜空になって星が出るというのはさすがに困りますが、描いたものがそれ自体で輝きを発するような絵の具があるなら、使ってみたいものだと思います。

現実には、絵で光を表現するには、闇や影をうまく描くしかありません。あたりまえのことですが、光を描こうとして、白い画面にいくら白い絵の具を塗ってみても、ちっとも光は表現できないですからね。

光を描くには、その逆の闇を描くしかないというのが、この世のさだめであり、要点でもあるのでしょうね。

「五木寛之の百寺巡礼ぬりえ」

私は20歳前に京都に住んでいたことがありますが、神社仏閣にはほとんど参拝したことがなかったですね。

今、思えばもったいない話しですが、当時、私はロック音楽からクラシック音楽へとのめりこんでいて、ジミー・ペイジをまねた天パーの長髪をばっさり切って、ポマードでオールバックにかためて、禁欲的な白のワイシャツに黒のジャケットという格好で、ドイツロマン主義の服装とはかくあるだろうと、自分で勝手(かって)に思いこんだいでたちで、京都の街を歩きまわり、当時はやっていたクラシック喫茶のひとつ、京都市美術館近くにあった「シンフォニー」という店に入り、シューマンだの、シューベルトだのを、溺(おぼ)れるように聴きふけっていたという、どうしようもない生活をしてました。

アルバイトの面接に行った友禅染めの工房では、「友禅やらはるなら、京都に骨を埋めるつもりで」と言われ、そうそうに逃げ帰ったという思い出もあります。

私にとって、そんなはるか彼方(かなた)、若いころの思い出の地、京都の名刹(めいさつ)を、五木寛之先生がめぐった”五木寛之の百寺巡礼ぬりえ”のカバーイラストと、本文の「ぬりえ」を、このたび担当させていただきました。

現在、1・2巻同時発売中です。五木先生のすてきなエッセイとともに、金閣寺、三千院、知恩院などなど、古都の風雅を感じながら、「ぬりえ」をお楽しみいただけたらと思います。

(”五木寛之の百寺巡礼ぬりえ1巻 集英社刊)

スパイロ・ジャイラ「カルナバル」

LPレコードは、今でも100枚くらい持ってます。その中で唯一(ゆいいつ)ジャケットの絵に魅了されて買ったのがスパイロ・ジャイラの「カルナバル」です。

スパイロ・ジャイラはアメリカのフュージョン・グループですが、私はフュージョンもジャズもほとんど聴かないので、それにどんな音楽が入っているかも知らず、ただただジャケットほしさにそのLPを購入しました。

それには南米のどこかでしょうか、雲の浮かんだ青空を背景に街並みが描かれ、はるか下のほうにはカーニバルの群衆が小さく見えていて、こちら側にせり上がって来る坂道の中央にひとり、両手をひろげて踊るピエロがいて、さらにその手前には、アップで大きく極楽鳥のような鳥が、熱帯植物の木の枝に悠然(ゆうぜん)と止まっているのが描かれているという、なんとも素敵(すてき)なジャケットです。

そして、さらに素敵なのは、その極楽鳥の下方、木の葉の暗い茂みの中に、目立たないようにひっそりと、小さな悪魔がほおづえをついた姿で描きこまれていることです。

祝祭の日に、ひとり憂鬱(ゆううつ)な小悪魔のいる風景とは、なんと夢想的でメランコリックなジャケットの絵であることでしょう。

収録された曲も、そんなジャケットの絵の雰囲気とよく合った名曲ぞろいで、私は夏になると、よくこのアルバムを聴きながら仕事をしています。

(「カルナバル」ジャケット模写)