” バンディリア旅行団 ”

バンディリアとは何の名称でしょうか?太古のインディアン遺跡?「バンデ」とはドイツ語で絆(きずな)、「リアン」もフランス語で絆、というのもなんだか的(まと)がはずれてるようですし、しかも、その名を冠する旅行団とは、これは何でしょうか?

「遠い昔に この声は響けよ 春ま近の あの丘の上から 岩へと根をはる木々の秘法で行く舟に乗り…」と歌われています。

平沢進さんの美しい創作 ”バンディリア旅行団 ” は、悠久(ゆうきゅう)からの時の流れを、時空のねじれの中にとじ込めて、アジア人共通の集合的無意識、あるいは超意識の奥底より湧き上がらせたような、なつかしさと郷愁を感じさせる名曲です。

平沢さんの歌声は独特です。アジアの草原に響き渡るように朗々(ろうろう)として、時折入るファルセットの高音が、この人の精神構造の異質さをうかがわせて、何かしら身にせまるような心持ちにさせられます。

それにしても、バンディリア旅行団とは何でしょう?

架空の地をめぐる時空の巡礼団、「空(を)横切る水瓶の星団」をめざす幻想の旅行団でしょうか?

(”バンディリア旅行団 ”の入ったアルバム ” 変弦自在 ”)

コピー用紙

私がまだ子どもだったころは、新聞の折り込み広告の裏が白いものに絵を描いて遊んでましたね。

なにも印刷されてない真っ白い裏地の広告をそのまま捨てるなんてのは、もったいなくてできなかったですね。

今なら、ホームセンターに行けば、500枚入り500円くらいのコピー用紙をいくらでも売ってますけど、それでも1枚もムダにしたくなくて、まちがってコピーしたのなんてのは、もちろんそのまま捨てたりしないです。

どうするかといえば、そんなミスコピーを貯めといて裏面使ってコピーしたり、私は鉛筆でイラスト描くことが多いですから、2つ折りにして画用紙の上に敷き、手の脂が用紙につくのを防止するのに使ったり、描いてある鉛筆線のこすれ防止に使ったりしてます。

描いてるとき用紙にじかに手をつけると、その上に水彩絵の具を塗ると、ムラになることがありますし、絵にじかに手が当たらないようにすることは大切ですからね。

そんなこんなでいろいろ使って、紙がけっこうくたびれてきて、ちょこっとメモ書きなんかもしたりして、もう充分に使い切ったな、なんて納得がいくくらいになって、始めてゴミ箱に捨てますね。

昭和生まれですからね、貧乏性だな~なんて言われたって気にしませんね。そんなこと言うヤツには「紙1枚、自力じゃ作れんだろうが!」って言ってやりますね。

” 神との対話 ”

私は子どものころはマンガしか読んでなくて、本なんてまったく読まなかったですね。

だいたい物事に集中するのが苦手で、ただボーとしてるのが好きでしたね。

だから読書なんていう、文字に集中して何ページも文章を読み進めるなんてことは、考えただけでも子供の私にとってはげんなりすることだったです。

自分からすすんで本を読みだしたのは中学生くらいからで、そのころは北杜夫さんの” どくとるマンボウ ”シリーズと、海外のSFが好きってくらいのものでした。

それが今じゃ活字中毒に近いんですから、人間わからないものです。

今では文字を読むことはちっとも苦痛じゃないんですけど、読書の欠点といいますか、唯一、困るところは、読んでる最中は他のことができないということですね。私は絵を描くのが仕事ですけど、本を読んでると、その間は仕事が止まってしまいますからね。

それで、先日ネットで ” 神との対話 朗読 ”と検索してみたら、” 神との対話①第1章-1朗読(KTメリティーナ) ”というのが出てきて、” ~対話 ”の朗読は他にもあったのですが、これは女性の声で、聴きやすくて良かったです。変に感情を込めたり抑揚をつけたりせず、ほどよく自制した読み方が秀逸でした。

” 神との対話 ”(ニール・ドナルド・ウォルッシュ著 サンマーク出版)はけっこう長大な本ですけど、これなら読まなくても、仕事しながらでも聴けるので助かります。

こうしてあらためて聴いてみると、ニールに降りた神はホントにいいこと言ってるな~て、今さらながら思いますね。

(こちらは、同じ著者で ”神との友情 ”)

 

言霊(ことだま)

神言葉は、よく掛(か)け言葉になっていると言われますけど、新約聖書の ”ヨハネによる福音書 ”の始まりは「初めに言(ことば)があった」となってて、続けて「言(ことば)は神と共にあった。言は神であった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と書いてありますが、ヨハネとは日本語流に言えば「四(ヨ)八(ハ)音(ネ)」となり、「いろは四十八文字(「ん」を入れて)」の意味もあり、いろは歌を7文字ずつ区切ると、「いろはにほへと」の最後の「と」、「ちるぬるをわか」の「か」、「よたれそつねな」の「な」、「らむうゐのおく」の「く」、「やまけふこえて」の「て」、「あさきゆめみし」の「し」、「えひもせす」の「す」で、合わせると「とかなくてしす」となり、咎(とが)なくて死したキリストのことが詠みこまれている、とも言われてて、西洋と東洋の神ごとが互いに掛かりあっているということで、まことにふしぎですね。

いずれにしろ、日本人である我々は、言(ことば)は言霊(ことだま)として大切にしましょうということで、そのうえ「言(ことば)は神である」のだから、愛ある言葉を言って、上をむいて行けば、「愛、言う、上を」で「あいうえお」となって、これでめでたしめでたし、とまあ、そんなことになるんでしょうかね。

ニンジン

ニンジンというのは、あれは生で食べると、ことのほかうまいんですよね。

以前、冷蔵庫の中に、料理に使ったニンジンの残りが少しだけ入っていて、なんとなくそれを輪切りにしてかじってみたら、これがうまかったんですね。

コリコリと歯切れのいい食感があり、野菜っぽい青臭さなんてのはまるでなくて、果物の仲間に入る直前くらいの甘味があって、最初はひときれだけ試しに食べてみたのが、もうひときれ、もうひときれと、コリコリ、コリコリ食べましたね。ニンジン嫌いなひとにとっては悪夢のような話しでしょうけど、そうして食べ進むうちに、「カロチンやビタミンがバンバン摂れてんだろうな~」的な気分的充実感もあって、私はたいへん満足しましたね。

ちょっとマヨネーズもつけてみたんですかど、そうすると全体がマヨネーズ味になってしまって、私としましては何もつけないのが、素材のうまみが感じられて一番のように思いました。

昔、テレビで、マッチョなおじさんがタマネギの外の皮だけとったのを、まるのまま生でガシガシ食ってるのやってて、真似してみましたけど、これはちょっとダメでしたね。でもニンジンは Good  でした。

今でも時々、スーパーの地元野菜販売コーナーなんかに置いてあるニンジン見ると、「こりゃあ、なんともうまそうだな~!」なんてウサギ的思考になって、買ってきてしまうことがありますね。

 

納豆玉子かけご飯

わたしなんか、納豆玉子かけご飯と、もりそばと、しょう油とんこつラーメンと、ペペロンチーノがあれば生きていける、なんて普段から豪語する者ですけど、むかし、テレビで見た番組で、たしか内戦で疲弊したアフリカの地方都市だったと思いますけど、親を殺されたため戦士となって戦った28歳の女性が、家がなくて、共同墓地の一角で寝起きしながら、そこで唯一お金を得る手段として、売春をしながら生きている、というのをルポしてて、彼女は1回の売春で200円(日本円換算)を受け取り、それで1日1回の食事にありついてました。

それからすると、私の豪語など、豪語でもなんでもないですけどね。

好きなものを食べて生きていけるなんて、日本にいると、どうってことないように思いますけど、あの女性のような現実を目にすると、納豆玉子かけご飯だろうがなんだろうが、好きなもの食べられるということが、たいへんに恵まれたことだな~と感じますね。

その女性は、取材するレポーターの前で、自分の身体と引き換えの1日1回の食事をとりながら、「食べる?」と言ってレポーターにひと口、その食事をスプーンに取って食べさせてあげてましたけど、彼女にはそれは切実なひと口だったと思いますね。

そんな状況下で、目の前の人に食事を分けてあげるなんてことの出来るその女性に、この日本でしょう油とんこつだのペペロンチーノだの言いながら生きているわたしは、なんだかいろいろなことがとてもおよばないな~なんて思ったものでしたね。

(とかなんとか言いながらも、夜食用の納豆玉子かけご飯 シソ、ネギ、おかか、きざみのり入り)

”臨死体験 ” その2

またまた立花隆さん著  ”臨死体験 ”からの話しで恐縮ですが(現在、読み返してるので、どうしてもこの話題になるんです)、立花さんは「アブノーマルなものはすべて非科学的世界に属するものとして排除してしまうと、科学は真の普遍性を失ってしまう」なんてことを言いながらも、親しい友人などが亡くなったとき、その同時刻に夢の中にその人があらわれてお別れを告げた、などの超常現象を「科学の中に取り込もうとする理論があり」、もしそういう理論が可能であるなら「死後の世界の存在とか、霊の存在といった超自然的な考え方を回避することができる」と書いていて、ここに立花さんの本音がうかがえておもしろいですね。

つまり、立花さんにとっては「死後の世界とか霊の存在」は、できれば「回避」したい非科学的な事柄ということで、つぶさに調査し、インタビューなどで体験に触れたりしたにもかかわらず、やはりそれらは正常な理性にとっては、とてもまっとうとは言えない事柄だ、という思いが立花さんにはどうしても消せないんでしょうね。

わかりますね~その気持ち。

私は若いころ、今は亡き丹波哲郎さんという俳優の出版した ” 永遠なる霊の世界”という本にイラスト描いたりしてますけど、そのころは「霊の世界」なんてものをまったく信じてなかったですね。

だからそういうものが信じられない人の気持ちがよくわかります。

霊とか神とかいったものは、物理的世界であるこの地球では、永遠のナゾなのかも知れないと思うことがあります。それらはこの世界では、むしろ知られないことが意図された仕組みになってるのかも知れない、なんてことを思ったりしますね。

神ごと

もう21年も前のことですけど、二子玉川の高島屋の中にあった書店で  ”神との対話”(ニール・ドナルド・ウォルッシュ著)という本を見つけて購入しましたね。

はじめは立ち読みして、「う~ん、まあ買わなくてもいいかな~」なんて思って、でもやっぱり気になって、次の日にもう一度出かけて行って買った覚えがあります。

本当に神と対話した人がいるのなら、その会話を聴いてみたいと思いましたからね。

その本の最初のほうに、著者のニールが「(神様にお願いするという方法で)欲しいものを求めることはできないのですか?」と尋ねると、神はこう答えてますね。「あなたは求めるものを手に入れられない(中略)、求めるというのは自分にないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと━欲すること━を現実に体験することになる。したがって、正しい祈りとは~感謝である」とね。

つまり、何かを「欲します」、と神に祈れば、神はその思い━つまり「自分はこれが足りてない」という、その不足の思いを現実化して祈る者に返してくるので、その人はそのとおりに不足してしまう、ということらしいです。

神様とのやり取りはちょっと変わってるんですね。

かつて納税日本一を12年続けた社長、斎藤一人(ひとり)さんも同じようなことを言われてますね。

本当に困ってしまったとき、「~(神名)さま、お助けいただきまして、ありがとうございます」と、すでに助けていただいたとういように、神様に過去形で感謝しなさい、と。

そしてその言葉を何度も何度も(とな)唱えていると、人はだれでも不思議な方法で助けられます、てことのようです。

「ね~、なんとかしてくださいよ。たのみますよ」じゃダメみたいですね。

神名とともに、過去形で感謝するのが最大のポイントだって一人さんは言われてます。つまり「自分はもう助かってます。そのようにしていただき、ありがとうございます」とすれば、神はその人が助かった状態を与えてくださる、というわけです。

神ごとというのは、むずかしくもあり、簡単でもありますね。

YouTubeで  ”斎藤一人 神とつながる! 不安、恐れからの解放! ”でわかりやすく説明されてます。ちょっと宗教くさいですが、そこさえがまんして最後まで聴けば、いい内容です。

でも斎藤さんは「私は宗教家じゃありませ。宗教団体でもありません。宗教団体は税金払わなくていいですけど、私は日本一税金払ってます」と言われていて、なるほどね、斎藤さんは宗教家じゃなくて、霊的預言者て感じの人のようですね。