理想の画家

理想の画家はだれかと問われれば、そうですね…、絵として好きなのはダリ、ポール・デルボー、ジョルジュ・デ・キリコ、アンリ・ルソー…まだまだいますけど、その人生も含めてとなるとむずかしいですね。

ダリは奇人を演じ続け、偏執狂的に執着した最愛のガラにも先立たれ、老齢となっても奇人を演じたまま死んでいきましたし、アンリ・ルソーは絵への情熱のあまり、とても良き家庭人とは言い難く、キリコは初期に描いた驚くべき絵画も、その後半では鳴りをひそめ、まったくの別人のような絵を描きましたし、どの画家も素晴らしい作品を残し、名声も得たということでいえば理想的ではありますが、その内面も幸福であったかといえば、どうなんだろうな~と考えてしまいますね。

画家として完璧な理想ということなら、次のようになると思います。

ダリのような技法を持ち、キリコのような霊感に満たされ、ルソーのように我(われ)を忘れて没頭し、デルボーのように別次元をさまよい、ピカソのように強い肉体を持ち、バルテュスのような家庭の幸福を手にして、ダ・ビンチのように聡明であり続ける、とまあこんなことになりますかね。

ああ、それから、ムンクのように内的で、クリムトにように女性にもてて、ギュスタフ・モローのように耽美的で、コンスタブルのように牧歌的で…、なんて書きだすときりがなくなってきますけどね。

(中学生のころ初めて手にした画集)

スティーヴン・ホーキング博士

物理学者のスティーヴン・ホーキング博士が亡くなりましたね。

博士の功績として、「論理物理学の研究を前進させ、ブラックホールの特異点定理を発表」なんて言われても、私にはさっぱりです。

物理学での博士の功績はともかくとして、博士自体の可能性は2つですね。一般的な科学的常識として、博士の脳や遺伝子を構成していた分子は、その死によって生命としての形をなくしバラバラになり土に還り、博士の意識は永遠に失われ、その功績は本とデータと、人の記憶の中にのみ存在することになったというのがひとつ。

もうひとつの可能性は、博士の存在自体は物理次元を離れ、別次元に進み、意識や個性はそのままに、肉体の制約を超えた存在となって、さらなる進展を続けるというものです。

私は後者を支持しますけどね。別次元の存在形態になって、その領域になじむと、身体は完全な状態となると言われていて、ALS(筋萎縮性側索硬化症)を患っておられた博士も、自在な健康体となって、そのことにビックリするやら、いろいろ可能性が広がるやらで、なんと宇宙は多様で神秘に満ちあふれていることかと、驚愕されていることだろうと思います。

博士のような物理学者にとって、今となっては自分が存在することになった未知の次元が研究対象に加わるわけですから、しかもその次元はオクターブのように7つの階層から成っていて、どの階層に同調するかは、本人の意識の進化の具合によるらしいということですから、それを研究するためには、博士は自分の外側に広がる世界と同時に、自分の内的宇宙の探索にも出かけることになり、研究は今まで以上に大変なことになるのでは?と、会ったこともない人なのに余計な心配をしたりして、まあ博士、研究もいいですけど、しばらくはのんびりと新次元で羽(はね)を伸ばされるのがよろしいんじゃないですか?なんて、余計なおっせかいといいますか、そんなとりとめのないようなことを、博士の訃報に接して考えてしまったような次第です。

星の世界

暗くなってから外に出て夜空を見上げると、ほんとうにたくさんの星が見えます。ここは田舎なので、都会で見る夜空にくらべ、見える星の数は圧倒的に多いです。

でも私が子どものころには、天の川がもっとはっきりと見えていた記憶がありますが、今はそうでもないので、このあたりも以前にくらべ人工の光が増えたということなんでしょう。

子どものころは、見えている星のひとつに焦点を当てて、「あの光ってる小さな星に自分が住んでいるとしてみよう」なんて考えて、「あの星は、きっとこの地球とはぜんぜん違っていて、ふしぎでビックリするような世界で、宇宙人が住んでいて、今、自分もそこに住んでいて、宇宙人として生きていることにしてみよう」なんて空想して、気の遠くなるようなワクワク感を感じていたものです。

でも、どこかの宇宙人が言っていたように、「あなたの生きるべき星は、この青い地球なのです」ということで、この地球で現実に対処し、物理次元でのさまざまな経験を積むことこそが「私がここに生まれた一番の目的ということなんですよね?宇宙人よ」なんて問いかけてみますが、当然そんなあたりまえの質問に答えをよこすような暇な宇宙人なんて、この近所の夜空を飛んではいないようです。

塩野尾さま

うちの近くに、山の頂上にもかかわらず湧(わ)き水の出ている場所があり、その水はどんなに日照りが続いても枯れたことがないそうで、そこには小さな社(やしろ)が建てられていて、毎年4月になると春祭りがとり行われます。

今日は、その祭りで使うもち米を集めに、私は近所の人と地区の家々をまわったのですが、不在だったところがあって、夕方、私ひとりでそこに車でむかいました。

山道を少し入ったところにある家で、私は初めて行った場所でしたが、それほど複雑な道すじではなかったので、あたりは暗くなっていましたが、なんの心配もせず道を進んで行きました。

民家がとぎれ、舗装されてない細い土の道を何度か曲がって進むと、まわりはヒノキがびっしりと立ち並び、日が暮れたばかりなのに、もうあたりは深夜のような闇につつまれています。しばらく進めば、昼間行ったあの家に着くはずと、車のライトが照らす先に目をこらしますが、いっこうに家には着かず、道幅はいよいよせまくなり、ついにはその先はヤブの茂った行き止まりになってしまいました。

私は”千と千尋の神隠し”状態になり、もしや魔界に迷いこんでしまったか、と焦りました。

車を降りてあたりを見まわしても、ライトに照らされた前方以外、静まりかえった闇があるばかりです。

後日、民家に続く道をまちがえて進んだらしい車が、行き止まりの祠(ほこら)の前で乗りすてられているのが発見され、それから何日か経った春祭りの日、山頂の社にやってきた人たちが、湧き水の横に座りこんでいる放心状態の私を発見するということになるのですが、私は何を聞かれても「塩野尾(しょうのう)さまの御殿に通され、十月(とつき)と十日(とうか)、そこですごしておりました」と、うわごとのように言うばかりだったということです。

(昼間はこんなかんじです)

パンズ・ラビリンス

”パンズ・ラビリンス”という美しくもグロテスクな映画がありましたね。

遠い昔、人間界にやって来た地底世界のお姫さまが、太陽の光を浴びた瞬間、自分が誰なのか忘れてしまい、死を体験し転生をくり返す人間となり、今ではスペイン内戦下で生きる少女オフェリアとなっていて、過酷で残酷な現実と同時進行の幻想的な世界を生きていくというものです。

オフェリアは彼女によりそう牧羊神パーンから、3つの試練を果たせば、元いた地底の王国に帰り、苦しみのない永遠の生を送れることを告げられ、それに挑みます。いろいろあって、試練の最後に、パーンはオフェリアに、幼い弟の血を差し出すように言いますが、彼女はそれを拒み、するとパーンは「あなたは約束を守らなかった」と言って、王国への道は閉ざされ、その直後、彼女は義父によって銃で撃たれてしまいます。

横たわる彼女の腹部から鮮血が地に注がれ、彼女の瞳からはみるみる生気が失われていき、彼女の生命はついに尽きてしまいますが、気づくとオフェリアは元の王国にいて、王から「君は無垢(むく)な者のかわりに自ら血を流した。それこそが最後の試練だったのだ」と告げられます。

人の世にも、このような試練はありますね。MRT良法の内海先生は会報の中に「時に天は、人にどちらとも選ぶに選べないような選択の試練を与えて、人がどうするか見ています」という意味のことを書いておられますが、まさにそれは、その人の真の内面が試されるときでもありますね。

映画の中でオフェリアは、永遠の王国に帰るための約束を破り、王国からの追放を覚悟し、自らの命をささげるという真の正義の体現者として、永遠の国の姫君としてのありようを示してくれました。

オフェリア役の少女、イバナ・バゲロ、かわいかったですね。

自然食酵素健康の会

昨年末、30年以上ごぶさたしてい方から、突然電話がありました。

それはこのブログを始めたばかりのころご紹介した「長岡式酵素玄米」の開発者、長岡勝弥先生のアシスタント(当時)で、先生亡きあと、その志(こころざし)を受け継ぎ、奇跡の酵素玄米の普及に尽くされている「自然食酵素健康の会」代表の旭(あさひ)さんという女性です。

電話のむこうの旭さんは、30数年の歳月を飛びこして届いたような、当時と変わらない声で、独特のお嬢さんぽいしゃべりかたで、私はなつかしいやら、驚くやらで、思い出話しに花を咲かせたものでした。

旭さんは今でも酵素玄米を通じて、多くの難病の方々の手助けをされていて、私の身内と関係する者の病のことを相談すると、「同じ病気の方がいらっしゃって、酵素玄米を食べ続けていると、その方は洗濯物を干せるようになり、しばらくしてご自分で歩けるようになりました」と、ていねいに経過をお話ししてくださって、本当にありがたかったです。

「自然食酵素健康の会」は利益優先の活動ではないので、大変なこともたくさんあるだろうなと思えるのに、旭さんは人助けのために身をささげておられる立派な方だなあと、私は感じました。

私が教えていただいた古神道の先生の本の中の御神言に「ひとごとと おもうて きらうなよ ふびんな子を あわれなる子を」とあり、「不憫(ふびん)な 哀れな子どもがいたならば 他人の子どもでも かわいそうだと思って 助けてあげますように」と解説があり、旭さんはまさにそれを実践されているのだなあと、私は頭の下がる思いでした。

(自然食酵素健康の会 https://nkgenmai.wixsite.com/shizen-kouso)

(この専用の圧力鍋で炊きます)

”魂でもいいから、そばにいて”

子どもを亡くした親、親を亡くした子ども、最愛の人を亡くした人たちの悲しみは、どれほどのものであることでしょう。

7年前の東日本大震災の日、私は文京区護国寺にいて、大日本図書でイラストの仕事の打ち合わせが終わり、有楽町線の護国寺駅に向かって音羽幼稚園の前の歩道を歩いていました。

急に道路が揺れはじめて、「お~、地震だ」と思いましたが、そのときはまだ大変な災害の始まりだなんて少しも思いませんでした。

見ると、講談社の新館の高層ビルがゆっくりと左右に大きく揺れていて、近くを歩いている女性が急に私に声をかけ、「マンションの部屋に子どもがいるのですが、もどったほうがいいでしょうか?」と言うので、私は「急いでもどってあげてください!」と答えたのを覚えています。

東北地方沿岸に壊滅的な被害が発生してから、もう7年もたちますが、家族を失った方々にとって、時間はあのときから停まったままでしょう。

宮城県や岩手県で被災された方にお話しを聴き、ふしぎな体験をまとめた本”魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く”(新潮社刊)は、ノンフィクション作家、奥野修司さんがていねいな取材をもとに書かれた実録記です。

津波で亡くなった兄の遺体が4か月後に発見され、その死亡届けを出しに役所に行った妹さんに、突然、兄からメールが届き、それを開くと、ひと言「ありがとう」と書かれていた話しや、最愛の妻と娘を亡くしたご主人の夢に、奥さんがあらわれ、「いまは何もしてあげられないよ」と語りかけ、「でも、信頼している」と伝えてきた話しなど、霊体験というものが決してオカルト的なものでなく、この世に生きる人と亡くなった人との真摯(しんし)なコミュニケーションだということが実感できる書籍です。

(”魂でもいいから、そばにいて”表紙 震災によって亡くなられた皆様のご冥福を心よりお祈りいたします)

ブリギッタ・フォン・トラップ

私がまだ小学生だったころ、テレビでやっていたアメリカのSFドラマに”宇宙家族ロビンソン”というのがあって、人類の宇宙移住計画の先がけとして、ロビンソン一家が宇宙船ジュピター2号に乗って宇宙を旅するという内容ですが、私はこの番組に夢中でしたね。

宇宙船の中にはフライデーというロボットも乗っていて、下半身はキャタピラーになっていて、上半身にあるカギヅメのような手からは、時々、バリバリと電撃光線を発して、宇宙のならず者から一家を救ってくれるという頼もしい存在で、私は好きでしたね。

でも、私がこのフライデー以上に気に入っていたのが、この家族の中の次女、ペニー・ロビンソンで、この人は、かのミュージカル映画の金字塔”サウンド・オブ・ミュージック”の中の三女、ブリギッタを演じていたアンジェラ・カートライト嬢です。

二重まぶたの印象的なまなざしが美しくて、宇宙家族ロビンソンのときは少しお姉さんぽくなってましたが、サウンド・オブ・ミュージック”の中では、清純で、天使のようでしたね。

まあ、実年齢では私より4歳年上のお姉さんですが、スクリーンの中の彼女は、永遠の美少女として、今でも変わることなくブリギッタ・フォン・トラップのままですね。

私は彼女の最近の姿を検索してみようなんて、決して、決して思いませんね。

(ブリギッタ・フォン・トラップ 昔描いたものです)

サウンド・オブ・ミュージック

昔、ジューリー・アンドリュースが歌ってましたね。「レインドロップス オン ロージーズ アンド ウィスカー オン キトゥンズ」て、つまり「バラの花の上の雨つぶと、子ネコのヒゲ」そういうのが「私の好きなもの」で、ハチに刺されたり、犬にかまれたり、悲しい気分のとき、そんな好きなものを思い浮かべると、「私は悲しい気分でなくなります」というのですが、まるでおまじないの言葉のようで、「本当に、そんなことくらいで?」と言いたくなりますが、そういうふうに言ってしまったら、美しい詩情あふれるミュージカルが台無しです。

「マイ・フェバリット・シング(私のお気に入り)」は、ミュージカル映画の金字塔”サウンド・オブ・ミュージック”の中の挿入歌ですね。

このミュージカル映画は、その冒頭から中盤まで、映画界がまだ愛と、夢と、希望を信じていたころの天上的な幸福感に満ちていて、ジューリー・アンドリュースがピクニックに来た高原でギターを弾きながら子どもたちと歌う”ドレミの歌”なんか、あまりに清らかで、性善説的な人間描写の映像となっていて、べつに悲しくもないのに、私はそのシーンを見ていると、なんだかグッときてしまって、私にとっては、もうそれ以上のストーリーは必要ない気がして、だから、映画の後半、トラップ一家がナチスに追われて、アルプスの山を越えて亡命するあたりになる前、ジューリー・アンドリュースと子どもたちが人形をあやつりながら歌う”ひとりぼっちの山羊飼い”が終わるくらいで、私はこっそりと映画館からフェードアウトして、深刻さが増す場面は見ないようにする、というようなことをやらかしてしまう、ダメな観客でしたね。

(”サウンド・オブ・ミュージック”サウンドトラックLPのジャケットより)

雨降り

雨が降りました。この雨が温かさを連れて来ると、天気予報で言ってました。

降った雨は地中にしみこみ、土や岩の中を通って川に注ぎ、やがて海に行き、蒸発して目に見えなくなって天空に昇り、希薄な雲になり、雨となって再び地に注ぐというのは、本当によくできたシステムで、それはどこか人間に似たところがあるような気がします。

天から実体のある姿となって、この地上に生まれ、ホコリっぽい地面で泥(どろ)にまみれて、濁流(だくりゅう)となって野を下(くだ)り、広い河でもまれて大洋に注がれた後に、目に見えない存在となって、元来た天に帰るという、この循環は、宇宙が人に仕組んだ経綸(けいりん)を、人間にとって最も身近かで大切な存在の水の循環の中に、暗喩のごとくなぞらえて見せているのでは?なんて思ってしまうこともあります。

あるいはそれは暗喩どころではなく、この水の循環と人の循環は、どこか深い部分でリンクしていて、この世は水からできているという教えがある通り、私みずから水からできているごとく、自分と水とは、分ちがたい天の仕組みの中にあって、写し鏡のように、切っても切れないものとして、この宇宙の中で人間は、永遠に循環しているのかも、なんて、なんだかわかったような、わからないような、とりとめのない思いで雨の音を聞いていて、「ひと雨ごとに春めいてまいりますね」の言葉どおり、本当に暖かくなってもらいたいものだ、もう寒いのはコリゴリだなあと思う、今日このごろです。