「月の恵み」

ボードレールの散文詩「月の恵(めぐ)み」は、月についての思いと、その神秘と魔力への傾倒、遠いあこがれのすべてが記(しる)されていて、美しくも気がかりな作品です。

ある夜、月はゆりかごで眠っている女の子をのぞきこみ、「私はこの子が気に入ったわ」と言い、雲の梯子(はしご)をおりて来て身をかがめ、その顔に彼女の色を染めつけます。

すると女の子は月を見つめて目を見開き、月に抱きしめられたので”泣き出したいような気持を、それからいつまでも拭(ぬぐ)いさることができないでいる”のだそうです。

「お前は永久に私のくちづけの影響を受けるでしょう…お前は私の愛するものを愛するでしょう~水とか、雲とか、夜の静寂(しじま)とか~お前が現にいるのでない場所とか、お前の知らない恋人とか、怪物のような花々とかを」(人文書院刊”ボードレール全集1”より)

夢想の中に浮かぶ月は白く美しく、それでいてどこか狂気を秘めていますよね。

この詩を読むと、ボードレールもまた「月に憑(つ)かれた者たち」のひとりであることがわかります。

(”月” 色鉛筆によるデッサン)

アートラッシュ「薔薇展」

昨年(2016年)の5月に、東京・代官山のギャラリー”アートラッシュ”で開かれた「薔薇(ばら)展」に参加させていただきましたが、今年も5月10日から22日まで開催される同企画展に参加することになりました。

昨年3月に、出版社などと打ち合わせするために上京したとき、アートラッシュさんに立ちよった際、「毎年やってる5月の薔薇展の出品にキャンセルが出たんだけど」という話しになり、たまたま持っていた私のバラの絵のポストカードをお見せしたところ、「絵を展示してみたら」ということになり”猫とバラの庭”など6点ほどの水彩画を展示させていただきました。

1年がたち、また同じ季節がやって来て、今年も「薔薇展」に参加させていただきます。

私のやっている幻想絵画販売所の絵は油絵ですが、水彩画で描きこむのも好きで、以前からバラの庭にちょこっと猫がいる絵を描いていて、今年もそんな水彩画を3点ばかり展示させていただきます。(「アートラッシュ代官山」で検索してみてください)

(”猫のいる庭6” 水彩画)

哲学の本

私は若いころ、ドイツの作家トーマス・マンに心酔していましたが、そのマンの小説の中に「”九つの交響楽”と”意志と表象としての世界”と”最後の審判”とを完成したところで…」と記述されているのを読み、”九つの交響楽”はベートーヴェンのことで、”最後の審判”はミケランジェロだけど、この”意志と表象としての世界”とはなんだ?と思い、敬愛するトーマスマンがこう書くからには、それを知る必要があるぞ、ということで調べてみたら、それはドイツの哲学者ショーペンハウエルの著作であることが判明し、私はさっそくそのぶ厚い哲学書を購入して読みました。

東京にやって来たばかりの20歳くらいのころですが、それがきっかけで他にも哲学書を少しだけ読んでみました。

カントやキルケゴールは難解で読み進めるのに本当に苦労しましたが、ショーペンハウエルは、それにくらべると少しだけ読みやすかった気がしたような…、でも今となっては何が書いてあったか、ほとんど覚えていません。

まあ、哲学書の内容は私には身につきませんでしたが、若いころの一時期にこういった本を少しくらい読んでみるのはいいかも知れません。

リチャード・ダッド

病的に細密な絵画といえば、一番に思い浮かぶのは1817年生まれのイギリスの画家、リチャード・ダッドの油絵、「おとぎの国の樵(きこり)の入神の一撃」です。

地面の石つぶひとつひとつまで描きこまれた、おとぎの国の風景の中、悪い夢にでも出てきそうな、少し病的なかんじのするたくさんの妖精たちが見守るその中央で、斧(おの)をかまえた樵(きこり)が、今まさにハシバミの実に一撃を加えようとするまぎわを、狂気をはらんだ描写力で描いた入魂の一作です。

ダッドは20歳で入学した王立アカデミーで、傑出した素描力を持っていたということですが、徐々(じょじょ)に精神に異常をきたし、中東旅行から帰った26歳のとき、「オシリス(エジプトの神)より命を受けた」として、父親をナイフで刺殺し、犯罪者精神病院に収容されます。

その病棟で10年かけて、この油絵が制作されたということです。

画面全体は、どこをとっても偏執狂的な細部によって埋めつくされていて、美しくもおそろしさのある、異次元の芸術作品となっています。

(鉛筆による、ごく簡単な部分模写です)

禁断の恋

ゲーテは74歳のとき、19歳の少女、ウルリーケ・フォン・レベツォに恋して、周囲のヒンシュクをかい、あげくに結婚を申しこみますが、婉曲(えんきょく)に断わられ、その体験をもとに「マリエンバードの悲歌」という恋物語りを書いたそうです。

作曲家、ヤナーチェクは74歳のとき38歳年下の美貌の人妻、カミラに片思いした体験から「ないしょの手紙」を作曲したそうですし、日本の禅師、一休(いっきゅう)さんは78歳のとき、30歳の盲目の美女と同棲し、88歳で逝去(せいきょ)するまで、なかむつまじく暮らしたということです。

男というのはこのように、いつまでもロマンチストと言いますか、少しおバカと言いますか、いくつになっても恋多き存在なのかもしれません。

でも、人間の魂(たましい)自体は、もともと男性でも女性でもないという話しもありますから、現在、女性である人も「男っていくつになってもバカよね~」なんて笑っていると、いつかどこかで転生して、男としての生涯をすごすことがないともかぎらず、その人生で年とってから、禁断の恋に目覚めるなんてこともあるかもしれないので、笑ってばかりはいられません。(「バラの庭」水彩画です)

夏目漱石の胃潰瘍

私は若いころ胃が弱くて、22~23歳のころ、酒を飲みすぎて吐血したことがあります。

そのころ私は夏目漱石の小説を読んでいて、漱石が持病の胃潰瘍(いかいよう)を悪化させ、吐血したあげく49歳で病死したのを知って、いや~なかんじを受けたことを覚えています。

当時、私は東京・東中野の土木設計事務所に勤めてましたが、連日夜おそくまで仕事をして、そのあと深夜まで酒を飲み歩くというダメな生活を送っていて、ある晩、深酒後にアパートに帰宅すると、急にヒザから力が抜けて床に座りこみ、吐血してしまいました。

それまで私の胃弱は生まれもった体質と思ってあきらめていたところがありましたが、「これじゃあいけない」と発想を転換して、胃の強化に取り組むことにしました。

私は意識的に胸をはり、常にみぞおちからヘソ下まで腹筋に力を入れて生活するようこころがけたのです。それまでは、腹に力を入れると、なんだか慢性的に胃にできている傷口を刺激してしまうような気がして、いつも腹には力をいれず、そーといたわって生きてきたのですが、もう傷口がどうこうは知ったことじゃない、と腹を決め、腹筋に思いっきり力を入れ、さらには毎日、腹筋運動もするという生活に切りかえてみました。

そうしていると、驚いたことに私の胃弱はいつしか治ってしまい、それ以来現在まで、胃薬ひとつ飲んだことがありません。

もし、夏目漱石の時代にタイムスリップできるなら、私は漱石先生に「腹に思いっきり力を入れ、毎日腹筋すると胃潰瘍治るかもしれませんよ」と伝えてあげたいです。そうすれば未完の長編「明暗」も完結させられたかもしれないと思ったりします。

(中経出版「夏目漱石が面白いほどわかる本」カバー用イラスト)

「プロフェッション」

遠い未来、地球では8歳になるすべての子どもが”読書の日”と呼ばれる9月のある日、コンピューターによって脳に文字の読み方を入力されるようになっていました。

次に18歳になると”教育の日”がやってきて、ここでもまたコンピューターによって職業の適性が審査され、すべての若者は最も適した職業にとふり分けられ、その職業に必要な知識を脳に入力されることになります。

本を読み学ぶという旧式な学習は、ずいぶん以前に忘れられたこの未来世界で、しかし、主人公のジョージ・プラトンは本を読むこと、自ら学習することに興味を抱き、密(ひそ)かに読書による学習をかさね、そのためにあらゆる職業に不適格である者と判定され、”精神薄弱者ハウス”に入れられてしまいます。

彼はある日、決意してハウスを抜け出し、収監(しゅうかん)される危険をおかしながら、自らの主張を述べるために惑星政府との交渉にのぞみます。

閣下と呼ばれる政府高官とテレビ電話で話すチャンスをあたえられ、ジョージは、機械によって知識をインプットされることよりも、自ら学習することによって学んでいくことのほうが、既存(きぞん)の知識に新しい知識を加えられるし、そのことは知識をインプットする機械自体を新たに創造してゆくことのできる最高の手段だと、高官に訴えるのですが、結局それは聞き入れられず、ついに警察に拘束されてしまいます。

そして元の”精神薄弱者ハウス”につれもどされたジョージはそこで、ハウスの本当の名称は”高度教育研究所”であることを知らされます。

そこは高度な能力を秘めた少数の者のみがつれてこられる場所であったのです。ここにつれてこられた者が、世界の進歩をになう真の能力者であるかどうかを確認する手段として、収監者自らが「自分は精神薄弱者なんかじゃない。自分には真の創造性がある」と声をあげ、そのハウスから抜け出す選択をするということが、最後のテストとなるのでした。

世界は自ら創造性を宣言した、そのような少数の創造的な者たちによって、教育システム自体を進歩させ、社会全体を運営する仕組みとなっていたというわけです。

自分の価値を信じ、行動する者こそが、真の創造者たり得るということを、SF小説として描いてみせた、アイザック・アシモフの傑作が「プロフェッション」です。(早川書房刊 「停滞空間」に収録)

透明なもの

なにかの本に書いてあったのですが、うす暗い明かりのもとで水晶球や、水の水面など、透明なものを見つめていると、そこにふしぎなものが見えることがあるということです。

なにかの情景や、うごめく微生物のようなものなど、人によって見えるものはさまざまらしいのですが、ジプシーの占い師は、水晶球の中に人の未来を見たり、カルロス・カスタネダの著作の中には、ヤキ・インディアンのマスターであるドン・ファンに導かれ、川の水面に浮かせた水盤から出現した精霊によって、カスタネダがあやうく水の中に引きこまれそうになった話が出てきます。

ボードレールの散文詩「パリの憂愁(ゆうしゅう)」の中には”シナ人は猫の目の瞳(ひとみ)に時刻を読む”とあって、まあこれは猫の瞳の瞳孔の開きぐあいによって、時刻を知るということで、ちょっと違うかもしれませんが、それでも、透明なもの、眼球のようにそれ自体でどこか神秘をたたえたもの、水晶、水面などは、なにかまだ私たちの知らない神秘がかくされているような気がしてなりません。

「トラタック」という瞑想は、鏡に映った自分の瞳を、まばたきをせず見続けるというものですが、うす暗い部屋でしばらくそうしていると、鏡の中に自分の過去世での顔が次々と浮かんで来ては消えてゆき、とどまることがないそうです。

(鉛筆デッサン)

「預言者」

カリール・ジブランはレバノン出身の詩人です。20年にわたる推敲(すいこう)のすえ”預言者”という長編の詩を発表し、「私はこの詩を書くために生まれてきたのだ」と語ったそうです。

”預言者”は賢者アルムスターファーが、神殿の巫女(みこ)や群衆に問われるままに、それに答えた問答集のかたちをとっていて、「愛について」に始まり、「自由について」や「自らを知ることについて」、「美について」など、さまざまな問いかけに対して、機知に富み、それでいて美しい詩的表現で答えが続くのですが、私が一番好きなのはその冒頭、アルムスターファーが長く親しんだオルファレーズの町から、故郷へと帰還するための迎(むか)えの舟が来るという場面です。

インドのマスター、バグワン・シュリ・ラジニーシは、その講話のどこかで”預言者”について語ったとき、これは人の魂が光明を得て現世を後にすることのメタファー(暗喩)であると話していたように、私は記憶しています。

アルムスターファーは、自分がこの舟に乗り、光明を得て旅立てば、もう二度と戻ってくることのないこの世界と、そこに住む人たちへの借別(せきべつ)の念をこめて、問われるままに、これを最後と世の真理を群衆に語り残す、というわけです。

ある日、彼方(かなた)へと帰るための迎えの舟が来る、というイメージに、私はなんだかえも言われぬ感動を覚えてしまい、その情景を油絵の習作として描いてみました。

この絵では舟が迎えに来る人物は賢者でなく、王冠をかぶった王子の姿をしていますが、私はいつかこの絵をちゃんとした作品として描いてみようと思ってます。

学校給食

小学校の学校給食で一番好きだったのは、正式な名前はなんというのか忘れましたが、カレー汁と言ったらいいのか、とにかくそんなスープが出たのですが、それが好きでした。

いっしょに出されるパンとの相性(あいしょう)も抜群でしたね。

私の通っていた小学校では、お昼になると校内放送で、ヨハン・ヨナーソンの「カッコウワルツ」が流れてました。冒頭(ぼうとう)からカッコウ鳥の鳴き声を模(も)したメロディーが印象的なクラシック曲で、これが聞こえてくると、授業は一段落、「あ~お昼だな~」と、開放的な気分になり、給食につづく昼休みの自由な時間へのワクワク感で、私は一時(いっとき)、学校という拘束(こうそく)から解き放たれるつかの間のよろこびにひたってました。

そのため、パブロフの犬的な条件反射で、今でも私は「カッコウワルツ」を聴くと、なんだか牧歌的な気分をともなった魂(たましい)の開放感を胸の内に感じてしまいます。

(全国学校給食協会の月刊誌「学校給食」2017年4月号表紙 水彩画です)