夏です

若いころは、夏の始まりには、まるでこの夏は永遠に続くような思いを持っていて、でも8月も終盤くらいになると、それまで寝苦しい夜が続いていたのが、ある日、急に涼しく感じて、ハタと「この永遠に思えた夏にも終わりはあるんだ」と、あたりまえといえばあたりまえのことなのを、なんだか、予期してなかったことが起こったというような戸惑いを感じてしまって、叶(かな)うことのない永遠の夏へのあこがれと、それが終わることへの悲しみというんですかね、なんとなくわびしい気分に満たされる、なんてことがありましたが、このころは、もう夏の始まるくらいから、「これもまた過ぎ去るのだよな」なんて、妙に先の先を読むような思いが浮かんできて、「そして秋が来て、すぐに寒くなり、冬が来るのだ」なんてね、思ってしまって、「そう言えば、今年の1月だったか、2月だったか、寒い寒いと思っていても、気がつくと桜が咲き、まだ春も始まったばかりなんて思っていると、知らないうちに暑くなって、最近の日本は春かと思えば、もう夏で、むし暑く、空が急に曇ったかと思うとドシャ降りの雨になって、日本はもう亜熱帯だ!なんてことを思うんだろうな、という思いが頭に浮かんだものだった」なんて考えていると、それが現在、夏の始まりのころなのに、もう「やがて、すぐにやって来る冬」のことを考えてしまって、なんだか夏の最中(さいちゅう)なのに、冬がやって来ることへの心配をしたりして、そんなこと考えてると、さらにその先へと一周して、またその先の夏が来ることへ思いをはせたりして…、なんなんでしょうね、「そうしてつまり、時はみるみる過ぎて行くのだよなあ」なんてね、こうなってくると、もう本当にとりとめがありません。

(夏っぽいLP&CDジャケット 松岡直也  /  夏の旅)

生まれ変わり

「次に生まれ変わるとしたら、何になりたい?」なんて質問してるのを聞くことがありますが、「私、ネコがいい!」とか、「私、鳥がいい。空を飛べるから」なんてことを言う人がいますが、まあ、ポエムとしてはいいですけど、現実にネコや鳥に生まれ変わったら、そりゃあ大変なことになると思います。

たとえば、ネコだったら、ペットショップで売られて、それでもまだ買ってもらえればいいですけど、売れ残って、ヘタすると保健所に引き取られて殺処分なんてこともないとは言えず、鳥なんてのはカラスにねらわれたり、食べもの見つけるのも大変で、冬でも夏でも、酷寒の中でも、猛暑の中でも、ヒーターもクーラーもない屋外で寝起きしなきゃならないわけで、じつに厳しい人生になると思われます。

あるいは別パターンとして、思いをとげられなかった恋人同士が、次の世に生まれ変わって出会って恋が成就するなんてストーリーもよくありますが、この宇宙は魂の成長のためにあるのであって、ラブストーリーの成就のためにあるわけではないので、そんな安易な展開はそうそうないと思いますけどね、私は。

今、アメリカで表面化してる白人による黒人の差別なんて、今生で差別してる白人は、次の生では高い確率で黒人に生まれ変わるんじゃないか、なんてことを私は思いますね。

黒人になって差別されてみれば、差別がよくないってことくらい、道徳教育でわざわざ教えてもらわなくったって、身にしみてわかるでしょうからね。

差別することをやめるのは「差別してはいけない」と教えられたからではないですよね。教育で内的な道徳の実践は起こりません。それが起こるのは体験を通して知ることによってですからね。

まあ、この宇宙、とりわけこの地球は、実践を通して知ることのための濃密な学びの場なんだと私は思いますけどね。地球はあっちこっち、じつにいろんな状況のバラエティーに富んでて、学びとなることは山ほどありますからね。そして、このことが、この地球に他の星からの魂の転生が絶えないことの理由なんだろうなと、私は思いますけどね。

 

アラジン灯油ストーブ

2年前にネットオークションで買ったアラジンの灯油ストーブが、今では洋間に置きっぱなしのオブジェと化してます。

これはアラジンの旧型で、この形が好きな人は多いらしく、生産中止からかなりたっているにもかかわらず、今でもよく取引されてるみたいです。

この形状と色がなんともレトロで美しくて、私も本気の暖房用というのではなく、なかばアンティークの飾り物として買ったというかんじなので、冬の間も全然使ってないんですね。

まあ、使わないもう一つの理由は、買ったときついていた芯が傷んでいて、ひと冬は使えたんですが、次の冬、調子が悪く、替え芯をネットで購入したんですけど、その交換が私にはうまくできない、というのもあるんですよね。

替え芯に付いている説明書を見ても、どうもうまくできないんですね。

古い芯をはずすとこがむずかしくて、やってるうちになんだか面倒くさくなってきて、「あとでやろう」なんて思ってるうちに2年が過ぎてしまいました。

夏の暑い盛り、しまい込まれずに洋間にある旧型アラジンのストーブ。まあ、これはこれでいいんじゃないかと、私は思ってますけどね。

虹とセミ

夕方、雨が上がったので、近所のスーパーに行き、買い物をして外に出ると、そこにある駐車場のむこう側に、ドーンと大きな虹が出てました。ビックリしましたね。

こんなに近くで、虹が鮮やかに弧を描いているのは初めて見ました。

スーパーの駐車場の先は国道になっているのですが、虹はそれに沿ってある民家のすぐ背後からはじまって、200メートルくらい離れたところにあるガソリンスタンドをもう一方の側として、みごとな半円となり、先ほどまで雨を降らせていた雨雲を背景に、色あざやかに空を圧してました。

よく見ると、その虹の外側には、薄くもうひとつの虹がかかっていました。

駐車場にいる人たちは、だれもこの虹に驚くこともなく、買い物袋を下げて歩き、車に乗り込んでいます。

そのとき私は、あいにくケータイを家に置いてきていて、写真を撮ることができませんでした。

家まではほんの3~4分ですが、ケータイを取りに帰って、ここに引き返してきたら、その間にたぶん虹は消えてしまうことでしょう。

私はしばらく眺(なが)めたあと、しょうがなく車に乗り込んでスーパーを後にしました。

帰ってきて、買い物袋から食品を冷蔵庫に入れていると、袋の底のほうで何かモゾモゾ動くものがあります。

なんと、それは一匹のセミで、いったいセミはいつ袋の中に入ったのか…。スーパーの駐車場で、私は虹を1~2分眺めてから車に乗り込み、家に着くとすぐに買い物袋を持って玄関から家に入ったのですから、その間どこかでセミが袋に飛び込むようなスキはなかったと思うのですが…。

セミを袋から取り出し縁側のカーテンにつかまらせ、スマホで写真撮影してから、外に放すと、それは勢いよくどこかに飛んでいきました。

なんとなくヘンな、夕方のできごとでした。

”雨にぬれても ”

さっき、ラジオから、B・J・トーマスの ”雨にぬれても ”が流れてましたね。

私が中学生のころの洋楽のヒット曲です。これ聴くと、雨でも「傘なんていらないや」なんてかんじで、ジーンズとコットンのシャツで平気で外に出て、近くにある廃線になった線路(実際には、そんなのないのですが)の上を、カンザスからオクラホマの方向に(くらいの気分で)のんびり歩いて、雨にぬれてもぜんぜん平気なのさ、レインドロップス ア~ フォーリン オン マイ ヘッドだな~、なんてね。

これは映画、” 明日に向かって撃て ”の挿入歌ですね。

ポール・ニューマンとキャサリン・ロスが自転車に乗るシーンが印象的でしたね。

当時、この曲を聴くと、中学生の私は、アメリカの田舎の少年になった気分で、雨降りの日には勉強のことなんてどうでもよくなって、「アメリカのここらあたりじゃ、雨の日に傘なんてささないんだよ」てなかんじでね。『なにを言っても 雨は止められない オレは自由だし 心配なんてなにもないんだ』ということで、どこまでもどこまでも、夏の雨の中を、平気で歩いていくことを夢想してたもんですね。

(梅雨の晴れ間に、傘を天日干し)

セミの時間

今年もセミの季節がやって来ます。

このあたりは去年はセミが少なかったように思いましたが、今年はどうでしょうね。

セミは幼虫のころ、土の中で7年も過ごして、そこから這い出して来て脱皮して成虫になると、1週間くらいしか生きられない(これは俗説で、じつは1カ月近く生きてるのもいるらしいですけど)とういことで、じつに儚(はかな)い存在だなあと思いますが。

しかし、インドのマスター、オショー・ラジニーシによれば、そんなセミでも、セミ自身としては、まったく儚い短命とは感じてない、ということでしたね。

そのセミが1週間生きたとすれば、セミは人間の感じている時間とは別の時間の中に生きていて、その1週間の中で恋愛もし、出産もし、壮年から老年へと多くの体験を重ね、充実の時を満喫し、離別を体験し、衰え、あるいは諦観して死んでいくのであって、セミ自身の感じる人生の密度は人間のそれと変わることがない、ということでした。

なるほどね。それぞれの生物には、それぞれの時間軸があるんでしょうね。

その中でセミも人間も、それぞれに波乱に満ちた(あるいは平穏な?)人生を体験してるってことなんでしょう。

そう考えると、まあ、もし銀河なんてものにも意識があるとしたら、それは「我々銀河の人生からすれば、人間てのはほんの一瞬の間に生まれて死んでいく、なんとも儚い存在であることか」なんてね、人間がセミを見るときに感じるような思いを、我々に対して持ってるかも知れないな~、なんてね、そんなことを思いますね。

(学研の図鑑に描いたセミのイラスト)

鹿用花火

先日、小中学校で一緒だった同級生のM君が、畑で作ったキュウリを持って来てくれました。

M君は公務員を定年退職して、今は野菜や米を作っていて、獲れたてのキュウリをおすそわけしてくれたのでした。

さっそく、真ん中からバキッと2つ折りして、しょう油つけてかじりました。

初夏の風味満載で、みずみずしい味でしたね。M君、ごちそうさまです!

そのとき、私が夜中に庭に入ってくる鹿をおどして追っ払うために、ときどき花火を発射してるという話しをしますと、M君はさすが地元のベテラン、花火の発射にはオモチャの拳銃の銃口に花火の柄を挿して着火すると、鹿のいる方向に向けて花火を撃てるので便利だと教えてくれました。

なるほどね。これまで私は花火を地面に生えてる草に寄りかからせて着火してたんですけど、オモチャの拳銃使うと、たしかに撃つ方向もコントロールできるので、いいと思いましたね。グッドアイデアですね。

今度、夜中に鹿どもが庭に入って来るようなことがあれば、この拳銃発射花火で追い払ってやろうと思います。

「どんな道?」

「ひとことで言うなら、あなたの人生の道とは、どんな道ですか?」なんて、抽象的なことを聞かれたことが以前ありましたけど、そんなこと聞かれてもねえ。

でもまあ、無理やり答えるなら、「まっとうな道ではない道です」て、くらいのことですかね。

20歳ころに芸大を中退してね、うちの親は、私に対して何も言わない親で、私のことは 「変わった子ども 」だと思っていて、小さいころは非常に身体が弱かったので、「生きのびてさえいればいい」と思っていたといいますから、そのときも特に何も言われた覚えがないですけど、勝手に中退して、大阪、京都、東京と放浪してたのですから、困った人間だと思ってたとは思いますよ。

つまり、まあ「まっとうな道ではない」道を来た、ということです。

それに、今でこそイラストレーターとして絵を描いてますが、若いころは、絵で仕事するなんて考えはちっともなくて、「絵を描くことは、つまり無用のことであり、実生活の手段としてやるようなことではない」なんて思っていて、「芸術とは、そういうものさ」なんてウソぶいていて、まあ、煮ても焼いても食えないディレッタント気取りといいますか、社会の役にはまるで立ちそうにない若造だったわけです。

ですから、私の道は、と尋ねられれば、、「まっとうでない道」と答えるか、あるいは「どうしょうもない、成り行きの道」であり、「まあ主に、ほぼいつも裏道ばかり通った道」ということで、人さまに公表することは、どうにも憚(はばか)られることの多い、そんな「道」であったと、かように思うわけです。

ここでまた、作家トーマス・マンの言葉の引用で恐縮ですが、” そもそも、ある種の人間には、正道というものがない ”と。うまいこと言いますよね、トーマス・マンは。じつに私はそういう種類の人間だと思いますけどね。