「ね」の効果

「そうです」とだけ言うのと、「そうですね」と、「ね」をひとこと付け加えるのとでは、語感がずいぶん違いますね。

仕事のメールのやり取りなんかでも、「了解です。イラストの修正、でき次第送らせていただきます」と書くのと、「了解です。イラストの修正、でき次第送らせていただきますね」とでは、ほんの少しの違いですが、相手に伝わるニュアンスが違う気がしてます。

「ね」をつけると、なんだか少しだけ和(やわ)らぐといいますか、印象がまるくなる気がして、文章の内容自体はまるで変わらないのですが、私はそのあたりを状況によって使い分けたりしてますね。

たとえば、著者のほうからイラストの修正依頼が何度も入って、イラストレーターである私との間に立って、編集の人が気をもんでいるだろうな~、なんて感じがするとき、「すみません。著者の方から再度修正が入ってしまいまして、やっぱり人物の表情をもう少し笑顔にしてほしいとのことです」なんて、編集の人から連絡が入ったときなど、「了解です。修正でき次第お送りします」だと、言外にこちらのイラ立ちが、どこか文章にこもっている気がして、そんなときは、「了解です。修正でき次第お送りしますね」と、「ね」を入れて返信しますね。

そうすると、なんだか文章の全体が和(やわ)らぐ気がしてきます。

編集の人にそのニュアンスが伝わってるかどうか、わかりませんけどね。私の自己満足かも知れませんが…。

来年は子(ね)年ですね。言葉に「ね」が加わることの語感と同じように、日本全体のニュアンスも少し和らいでくれるといいな、なんてことを思いますけどね。

(以前、学研の図鑑に描いたイラスト。)

 

シナトラのCD

車の中でBGMに流してるCDを、ウエス・モンゴメリーからフランク・シナトラに替えました。

”カム  フライ  ウィズ   ミイ  ”というタイトルのアルバムで、1953年から57年ころに録音された曲が中心のもの。

CDを出し入れするところが調子悪くて、ウエス・モンゴメリーをずっと入れっぱなしだったんですけど、特にファンということではなく、「こういう曲は当たりさわりなくて、いいんじゃないかい」ってくらいの感じで、入れたはいいけど、取り出せなくなってしまって、ずーとそのままにしてたのが、この前、ガチャガチャやってると、CDがスーと出てきたので、替わりにシナトラを入れたというわけです。

曲は ”  カム  フライ  ウィズ  ミイ  ”から始まって、  ”  アラウンド  ザ  ワールド  ”  、”オータム  イン  ニューヨーク  ”や  ”ブラジル  ”など、世界旅行するイメージで選曲されていて、 ”アイ  ラブ  パリ  ”なんてのもありますね。

I  love  Paris …うっとりしますね。まるでパリの並木の道を車で走っている気分です。パリなんて一回も行ったことないですけどね。

I  love  Paris  in  the  winter  when  it  drizzles~.       drizzlesてのは霧雨らしいです。「霧雨の降るパリも愛おしい」なんてね、そうなんですかね…。

寒いの苦手ですけどね、私は。でもこうして歌われると、そんな気もしてきますね。

シナトラの歌の中では、霧雨にけむる冬のパリは、どこまでもメランコリックで、良き時代の詩情に満ちていますね。

” 夢見るクリスマス ”

クリスマスの曲といえば、ビング・クロスビーの” ホワイトクリスマス ”や、”きよしこの夜 ”、 ” ウインターワンダーランド ”などなど。邦楽なら山下達郎さんの” クリスマスイブ ” (この曲は英語バージョンもありますが、私は日本語の方がいいですね)、賛美歌では ” あら野のはてに ”など、いろいろありますが、ちょっと変わったところで、プログレのロックグループEL&Pのボーカル、グレッグ・レイクのソロ曲 ”I BELIEVE  IN FATHER CHRISTMAS ”というのがいいですね。

これは、ロシアの作曲家、プロコフィエフの作った組曲 ”キージェ中尉 ”の中の曲、「トロイカ」が原曲ですが、独特のメロディーがじつにクリスマスっぽくて、歌はグレッグ・レイクなんですけど、もともとのアイディアは、クラシックに造詣の深いキース・エマーソンじゃないかと、私は思うんですけどね。

クラシックの曲の中の心惹かれるフレーズを取り入れて、プログレの曲に作り替えるということについては、キース・エマーソンほどに優れた人はいないですからね。

” I  BELIEVE  ~ ”は邦題 ”夢見るクリスマス ”ということですけど、私は昔、渋谷のタワーレコードで買った メイドインEU版のCDでしか持ってないですね。だから最近までこの曲が、そういう邦題がついてるとは知らなかったです。

” キージェ中尉 ”は1933年、プロコフィエフが映画のために依頼されて作った音楽で、後に組曲に仕上げたということですけど、映画の中ではどんな使われ方してるんでしょうね。クリスマスとは関係ないんですかね。

もしそうなら、これをクリスマスソングにとアレンジした、キース・エマーソン(あるいはグレッグ・レイク)は、やっぱりスゴイ音楽家だなーと思いますね。

量子コンピューター

昔、創元推理文庫から出ていた「年間SF傑作選」という、海外ものの翻訳で読んだコンピューターがどんどん進化して行く話しで、おもしろいのがあったんですけどね。あの本どこに行たかな…。

コンピューターを管理しているオペレーターが、ある日、遊び半分に「この宇宙はどうやって始まったのか?」という質問を入力してみたところ、しばらくしてコンピューターは「お答えするにはデータ不足です」と出力してきて、それから世代を経て、コンピューターは巨大に進化し、ある日、また誰かがそれに「この宇宙の始まりは?」と質問して、するとコンピューターはすぐに「お答えするにはデータ不足です」と答えたと…。

それから年月を経て、コンピューターは太陽系の惑星間をネットワークするほどの超巨大なものに進化していて、惑星連合の誰かがある日、「この宇宙はどうやって始まったの?」と質問すると、コンピューターの答えは依然「お答えするにはデータ不足」とのこと。

それから数世紀が過ぎ、コンピューターは銀河全体に及ぶ量子ネットワークへと進化していて…。

汎宇宙連合に属する生命体の誰かが、ふと思いつき「コンピューターよ、この宇宙はどうやって始まったのか?」と質問すると…コンピューターは次のように答えます。「私がそれを始めよう。光あれ」。「すると光があった。主はそれを見て良しとされた」。ということで、旧約聖書の冒頭につながるというもの。

おもろい話しやないかい、と思いましたね。もう50年近くも前に読んだ本ですけどね。あの本、どこに行ったかな…。

(これは、量子コンピュータの本。全部は読めてません)

 

クリスマスの飾り

クリスマスが近づくと、レトロなガラスの水差しに、ナンテンだのヒイラギだの、ローズマリーだの、いろいろ差して、クリスマスオーナメントなんかと一緒にアレンジしたのを2セット作ります。

ひとつはうちの玄関の棚に飾り、もうひとつは隣りの家に持って行って、そちらの玄関に飾る用に置いてきます。

隣りはうちの本家で、同じ角(すみ)といううちですが、小学校5年の男子がいます。

小5ならクリスマスプレゼントはゲーム機だか、ゲームソフトなんかでしょうが、そういうのはお父さんお母さんサンタから届くとして、私は勝手に、半(なか)ば無理やりにクリスマスの玄関飾りを持って行くことになってます。

去年雑貨屋で小さなユキダルマの置物を見つけたので、それもセットで持参します。

クリスマスが過ぎると私はそれを回収して、整理して棚の奥にしまい込みます。来年はまた新しいナンテン、新しいヒイラギ、新しいローズマリーなどで、その年のためのクリスマスオーナメント、棚飾りを作ることになると思います。

そうしていると、これがやがていつものクリスマスの当たり前の行事になってた、なんてことがあるかも知れないです。

水彩画を描く

最近はイラストの合間に、水彩画を描いてます。

今年の前半は、そういうときは油絵を描いてましたけど、今は油絵モードはちょっと冷めて、水彩画です。

油絵は絵具の盛り上がりや、うすく溶いた絵具の塗り重ねなどで、いろいろと絵に深みが加わり、やっていて果(は)てがない感じがするので、飽きないのですが、水彩もやりはじめると、こっちはこっちで作業は奥深いです。

「完成」と思っても、翌朝見てみると、なんだか色に締まりがないというか、どこか色の抜けた感じがするというか、昨夜の時点では、充分に描きこんで、もう万全の気がしてたのが、どうも違うなとなって、画面をジーと見つめるなんてことがあります。

あんまり見つめていると、いよいよなんだかわからなくなってくるので、そういうときは他の仕事をしたりして、時間をおきます。

そしてしばらくして、パッと絵を見ると、手を入れるべき部分が見えてきたりすることがあります。そういうことを何度か繰り返して、まあなんとか絵は完成しますね。

この水彩画シリーズで、” 幻想絵画販売所 ”をリニューアルする予定なんですけで、もう少し時間かかりそうなかんじです。

(水彩画  ”バラとダリアの庭 ” 部分)

アナログ人間

今、けっこうスマホ依存の人が増えてるんですってね。

私なんか、そんな時代の潮流には完全に乗り遅れてるので、ぜんぜん大丈夫ですけどね。

ずーと座って仕事してるので、メールのやり取りはパソコンでやりますし、何か資料を検索するときもパソコンです。画面大きくて、パソコンのほうが見やすいです。

出不精なので、グーグルマップ見たりもほとんどしないですしね。

家にこもって仕事してるので、スマホで電車の乗り換え調べたりもしませんし、うまいランチの店探すなんて機会もないです。

ラインは使ってますけど、SNSはやってませんね。だから、スマホ依存なんてなりようがないですね。

今の若い人は大変ですね、スマホ依存になったり、ゲーム依存になったりね。

オリオン座のペテルギウスが大爆発したらどうするんでしょうね。いつ爆発してもおかしくないらしいですからね。

強力なガンマ線で地球上の電子機器が全部ダウンしたら、きっとスマホだろうがゲーム機だろうが、はたまた自動運転のナビだろうが、全滅じゃないですかね。

そうなったら依存もクソもないでしょうね。

で、もしそうなったとしても、私みたいなアナログ人間は平気ですね。庭でたき火して、イモ焼いて食ってるでしょうからね。

(アナログ人間なので、筆記用具は鉛筆かシャープペン)

霊視者ルソー

またも、画家アンリ・ルソーの話しで恐縮ですが、ルソーはある種の霊視者だったんだと、私は思いますね。

岡谷公二さん著  ”アンリ・ルソー 楽園の謎”にも次のように書いてあります。『弁護士のギレルメも「ルソーはよく私に、絵を描いている時、精霊たちが自分の手をみちびいていると、繰り返し語りました』と。

また『ルソーが、著名な高踏派の詩人カテュル・マンデスに誘われて、降霊術の集まりに出かけていった話しを記している~彼はある日僕のアトリエにやって来て、サン=ジャック街のある家へつれていってくれたんだが、その四階に死にかけた男がいて、この男の魂が、すきとおって光る虫のかたちをして、部屋の中に浮かんでいたんだ、とルソーは語った』とのことです。

これは古神道の先生が書かれてる、人の臨終のときの様子に似てますね。それには、人の死に際して「顔のところからモヤモヤとした湯気のようなものが立ち上がっていました。そして眉間のところより細い線がユラユラするように出ていて、その先のほうに丸い薄い空色の光の玉がありました」とあります。

この玉は霊魂なんでしょうね。ルソーのほうはそれを「すきとおった光る虫」と表現したのだと思いますね。

ルソーは素朴派の画家なんてものではなくて、きっと幻想画家ですね。

ルソー自身、自分のことを「私は象徴主義の絵をやってるんです」と言ったとあります。

もちろん、ルソーが本来の意味での象徴主義の画家ではないでしょうが、まあ言ってみれば幻想的、夢想的、自分の思いを懸命のリアリズムで描き続けた、ふしぎな画家ということになりましょうかね。

(晩年のルソー)