明晰夢

私は夢のコントロールというのは、ぜんぜんできません。

よく、夢をあやつって、自分の好きなように操作するという話しを聞きますが、私にはその才能はないようです。

自分が眠っていて、夢を見ていることに気づきながら見る夢のことを明晰夢というようです。1980年ころまでは、夢研究者のあいだで明晰夢など「本来ありえないこと」と考えられていて、それは「考える価値のないほど奇妙なこと」とされていたようです。

この状況を変えたのが、精神生理学者、スティーブン・バラージです。バラージは、人が眠って夢を見ているときは、肉体は麻痺状態になっているが、眼球運動だけは例外であることに着目しました。

それまでも人が睡眠中に夢を見ているとき、急速な眼球運動が起こることは知られていたので、バラージは、この眼球運動が起こっているとき、眼球を意図的に動かすことで、その信号をポリグラフに記録させ、自分が夢見の最中に、その夢を認識していることの証明に使えると考えたということです。

バラージは、この実験をスタンフォード大学睡眠研究センターの協力を得ておこない、その結果を1980年3月にサイエンス誌に「レム睡眠中の自由意志での伝達により立証された明晰夢」として発表して脚光をあびました。

夢の研究は、今でも進歩しているものの、その全体はそれでも謎と神秘につつまれたままということのようです。

西暦415年、カルタゴの医師ゲナディウスは、死後の生はあるかどうかで頭を悩ませていたとき、夢の中で天使のような若者と会い、「今お前の肉体はどこにある?」とたずねられ、「私の寝床に」と答えると、その若者は、「今、お前は眠っていて、お前の肉体の目は閉じられている。それなのに依然として私を見ている~このように、お前の死後、肉体の目はまったく働かなくなるが、お前の中には、今、私を見ているのと同じに、死後も生き長らえる命がある」と告げられたということです。

(”大ねずみの夢” 鉛筆画)

「小学館の図鑑NEO 危険生物」

私は小学生のとき、田舎の山道を片道3キロほど歩いて学校に通ってました。

3、4年生のころだったと思いますが、その道の途中、お地蔵さんのある石垣にスズメバチが巨大な巣を作ったことがありました。

最初は「なんだかハチが飛んでるな~」くらいだったのが、そのうちけっこうな数が石垣にうごめいていて、あたりをブンブン飛びまわりはじめて、親たちや先生も、これはまずいと思ったのでしょう、ある日、帰り道にその石垣にさしかかると、石が一面黒くすすけていて、上級生の話しでは「日本原(にほんばら)から自衛隊が来て、火炎放射器で巣を焼き払った」ということでしたが、本当にそうだったのかどうかはわかりません。

火炎放射器なんてゴジラの映画くらいでしか見たことがなかったので(ゴジラには火炎放射器、登場してませんでしたっけ?)、子ども心に「スゲーな」と思ったものでした。

そんなスズメバチをはじめ、世界中の危険な生物を網羅(もうら)した図鑑”小学館の図鑑NEO 危険生物(DVDつき)”のイラストを担当しました。

昨年(2016年)春からイラストを描きはじめ、今年6月に発売ということで、1年がかりの長い仕事でしたが、スパンが長かったぶん、少し余裕をもってできた仕事でした。

(”図鑑NEO 危険生物”より「春先のアワビの内臓をネコに食べさせると、耳が落ちるという言い伝え」のためのイラスト)

風船

先日どこからともなく、庭に風船が飛んで来まして、それは白地に音符が印刷されたシンプルなデザインで、ほかには長いヒモがついているだけ…それがどういった風船なのか何の手がかりもありません。

世に偶然で起こることはないというなら、これだってささやかな何かの意味があるというわけで、これはどういう理があるのか考えをめぐらせてみましたが、何も思い浮かばなかったです。

唯一の手がかりは印刷された音符で、ト音記号や四分音符なんかが並べてあって、それは曲になっているわけではなく、単なるデザインとして印刷したというかんじです。

ということはつまり音楽に関係した何かの予兆(よちょう)でしょうか?そういえば先日、中古のCDを買う手続きをして、それが近いうちに送られて来ることになっているので、その前兆として、フワフワと風に乗って音符つきの風船もやって来たということなのかな、と思いました。

中古CDはVita Nova {ancient flowers}。この中には、参加メンバーのひとり、上野洋子さんの歌う”スカボロ・フェアー”という曲があって、これはサイモン&ガーファンクルで有名なあの名曲を、歌詞はそのままに、まったく別のメロディーで歌い上げるという離れ技(わざ)をやっていて、しかもそれが良い曲になっているというすぐれものです。

(庭に来た風船)

モンス・デジデリオ

モンス・デジデリオは忘れられていた画家です。

1593年、フランスのロレーヌ地方、メスに生まれ、ローマからナポリと移り住み、通称モンス・デジデリオと呼ばれた画家、フランソワ・ド・ノームと、その共同制作者、ディディエ・バッラによって生み出された絵画は、闇の中に浮かび上がる幻想の建造物が、奇妙な静寂とともに画面いっぱいに広がる、ふしぎな作品群です。

ドイツの文筆家、グスタフ・ルネ・ホッケは「迷宮としての世界」の中で、モンス・デジデリオを「シェイクスピア時代のシュールレアリスト」と呼び、アンドレ・ブルトンはその著書「魔術的芸術」の中で、ギュスターヴ・モローやキリコとともにデジデリオを取り上げ、この忘れられた画家を復権させることに貢献しました。

”夜の殺人と空想的建築群”と題された作品では、奇妙な光の射す夜景の中、亡霊のごとく浮かび上がる石像たちをまとった中世の架空の聖堂が屹立(きつりつ)するその前景に、ハンマーを手にして、打ち倒した男にとどめをさそうとする高貴な女性の姿が描かれています。

ドラマチックな場面のはずのこの絵画はしかし、暗褐色(あんかっしょく)の闇と、そこに射す超自然的な光、圧倒的な奇想的建築物などによって、じつにシュールレアリスティックな虚構世界へと仕上げられています。

(”夜の殺人と空想的建築群” 鉛筆によるおおまかな模写)

 

「猫たちの王」

バルデュスこと、バルタザール・クロソフスキー・ド・ローラ。20世紀最後の巨匠にして、93歳の誕生日を目前にスイス、ロシニエールの自宅で息を引きとった幸福な画家。

ポーランド人の貴族の血をひく名家に生まれ、父は画家・美術史家、母も画家という血統で、9歳で両親が別居するものの、やがて母は詩人リルケと恋愛関係に。

13歳のとき、愛猫ミツとの出会いと別れを描いた絵本「ミツ」がチューリッヒの出版社より出版され、その序文はリルケが書くという豪華版。

26歳でパリ、ピエール画廊で初の個展。同年7月に恋人へのあまりの思慕から自殺未遂を犯すも、その絵画は「新フランス評論」で絶賛され、画家としての地位を確立。

少女を「この上なく完璧な美の象徴」、「神聖かつ不可侵の存在」ととらえ、”ギターレッスン”や”夢見るテレーズ”など、あやういエロスのかおりただよう名作で有名なこの画家のもうひとつの顔、それは猫好きという側面です。

1935年に描かれた”猫たちの王”は、猫たちの世界に君臨し、猫を愛してやまないバルデュスの自己表現が極(きわ)まった強烈にして美しい自画像です。

奇妙に長くのばされた足、陰影の深い端正な顔だちでポーズを取るその姿は、まさに猫たちの王にふさわしい威厳(いげん)と美意識に満ち満ちていて、称賛に値します。

(”猫たちの王”おおまかな模写)

仕事中の音楽

仕事中はだいたい音楽を流してます。イラストの全体をなんとなく構想しているときや、考えながらラフを描くときは無音のほうが良いですが、いったん下絵ができて仕上げにかかるときは、何か音がほしくなります。

テレビだと、そっちに目がいって作業が止まってしまうので、もっぱら音楽を流すということになりますが、歌詞のあるものはそれに引っぱられて気が散ってしまうことがあるので、どうしてもBGM的なものを選びがちですが、いずれにしてもメロディーが良いものと言いますか、生理的に心地よいものが基本ですね。

音楽は、どんなに技法的に凝っていようが、作りこまれていようが、天賦(てんぷ)の才を持つ人が生み出す心地よいメロディーがないと、どうにもならないので、そういうちゃんとメロディーの美しさがあるものを自然と選んでしまいます。

最近ではフィドル(ヴァイオリン)やケルティックハープなどによるアコースティックユニット”Bard de Noel”、”ハンドリオン”などの演奏や、パフュームの”作業用BGM Perfume Mix  10th 66曲メドレー”なんかをパソコンで流しっぱなしにして作業してます。

でも、それらの音楽にもそれが呼び起こす気分の傾向というのがあるので、それが重荷になると感じるときは、ラジコでAMやFMのラジオ放送を流してますが、まあ、仕事中になにか音がないとだめというのは、一種の中毒なのかも知れませんね。

(”猫のいる庭”水彩画)

 

 

庭の草取り

インデアンは薬草をつみ取るとき、薬草にわびてから採取したという話しを読んだことがありますが、私が庭の雑草を取るときは、そんなことやってる場合じゃないですね。

春から夏にかけての雑草の勢(いきおい)はすさまじく、強靭(きょうじん)な生命力でグングン成長して、ちょっと油断してると、庭は草ボーボーになってしまいます。

春先など、ほんの少しだけ伸びた雑草を抜き取ってみると、厳しい冬を乗り越えたたくましさのあかしとして、驚くほど深く根をはっていて、海に浮かぶ氷山と同じで、海面から出ている部分の何倍もの氷が水の中に隠れているというのに似て、土の中の雑草の根の巨大さには本当にびっくりさせられます。

小さい花を咲かせている雑草などは、一瞬抜くのをためらうときもありますが、ここを残せばあそこも残さなければならない、なんてことにもなるわけで、そんなときには非情な執行人となって、花だろうがなんだろうが無慈悲(むじひ)に抜きとります。

そうして草のなくなった庭を見て私は、「すっきりしたな~」と思うわけですが、雑草にしてみれば、「残虐のかぎりをつくしてくれたな」という気分だろうと思いますね。

(春先に植えたタイムとローズマリー)

夜の精霊

私は川崎市にいたころ、よく深夜にコンビニまで夜食を買いにでかけました。

徒歩5~6分の距離ですが、人通りのない夜の道を歩いていると、街路灯に照らされた公園の入り口に眠たげな巨人がうずくまっているのが見えることがあり、だんだん近づくとそれは、こんもりと茂った樹々と、壁に落ちた葉影が作り出す幻影(げんえい)だったことに気づきます。

さらに歩いていくと、こんどは大きなふしぎな姿の鳥が翼(つばさ)を広げたり閉じたりしていて、近づくとそれは、ゴミ置き場のネット越しに風にゆれるゴミ袋が作りだすまぼろしだったと気づきます。

このように私は、なんでもぼんやりとして見ていると、そこに奇妙な人の姿が見えたり、ちょっとした陰影(いんえい)が、怪物の横顔に見えたりすることがよくあります。

夜風になびくカーテンの柄(がら)をながめていると、それが奇妙な魔人の顔に見えたなんてこともしばしばです。

人間は3つの点があるものを見ると、それが顔に見えるという傾向があるということですが(シミュラクラ現象というらしいです)、私の場合、それが少々病的にこじれたものかもしれません。

そのため私は、深夜のコンビニへの行き帰りで、時々3~5あるいはそれ以上の”眠れる巨人”や怪物に出合うことになったわけです。

(昔の鉛筆デッサン)

引き寄せの法則

仕事、人間関係、健康など、よいことを引き寄せる方法について書かれた本は、今ではたくさんありますが、その元祖は、エスター&ジェリー・ヒックス著「引き寄せの法則」(ソフトバンククリエイティブ刊)でしょう。

これは米国の主婦、エスター・ヒックスをチャネル(媒体)として出現した”エイブラハム”と名乗るスピリチュアルな存在が、その夫ジェリー・ヒックスとの対話という形で、この地球でより良い人生を送る方法を伝授した問答集です。

宇宙には「それ自身に似たものを引き寄せる」という法則があり、それを活用すれば「あなたは喜びに満ちて自由に、思いどおりの人生経験を創造できる」というのが”引き寄せの法則”の基本的な考え方のようです。

エイブラハムは、自分とそのまわりのことを好ましい方向に導くには、自分の気分が今の時点よりちょっとだけ良くなる方向に意識を向けることが大切だと語っています。

人が不幸のどん底にいるというような場合は、急に喜びに満ちた気分にはなれないので、「今いるところより、ほんの少しだけホッとする」考えに移行するというのがポイントだということです。

「医者の診断結果のせいで不安になっている。~その病気で死んだ人が家族の中に何人もいて心配だ」という現実に直面した場合など、「でも、診断の内容は死刑宣告というわけじゃない」という考えに移行して、少しホッとする方向に進み、

そこから「この病気にかかっても、軽い症状ですむ場合もある」と考えて、もう少しホッとして、

「私は今まで病気になっても、いつだって回復してきた」というように、さらにホッとする考えを選択してゆき、気分を改善するようにつとめれば、徐々に自分とまわりのものごとが変化し始め、快適な状況が引き寄せられてくる、というわけです。(ナチュラルスピリット刊「引き寄せの法則のアメージングパワー」)

これに対して「ただ現実を直視しないことをアドバイスしているだけで、そんなことに何の意味があるのです?…」との質問にエイブラハムは、「物事をありのままに見たり話したりしているかぎり、何も変わりません。~どんな問題に関しても、少しずつなら容易に、視線を心地よい場へ向けられるようになってきます」と答え、「あなたは、心地よい現実を創造できるのに、なぜ心地よくない現実を直視したり受け入れたりしたがるのでしょうか?」と言ってます。

(庭に咲いていたバラ)

夜のガスパール

1807年にイタリアで生まれた詩人、ベルトランは、貧困と病苦の中”夜のガスパール”という散文詩を遺作として残し、看(み)とる者もない孤独の中、34歳でこの世を去ります。

散文詩という形式を確立したとされるボードレールに先行し、死後50年してメルキュール・ド・フランスによって普及版が刊行されるまで、まったく知られることのなかったこの作品は、アンドレ・ブルトンの”シュールレアリスム宣言”の中で「シュールレアリスムの先駆」として称賛され、モーリス・ラベルによる同名のピアノ曲によって、広く知られるようになります。

とは言っても、それほど有名な詩人ということでもなく、多くの人に読み継がれている作品ということでもなく、まさに幻想とともに夜の闇の中に消え去っていくような作品です。

この中にある”オンディーヌ”というのが私は好きです。「聞いてください!聞いてください!私です、オンディーヌです」と始まり、「星のまたたく夜と、眠りについている美しい湖を露台から見つめている、水のお城のお姫さまです」と続きます。

話しかけられた「私」に、オンディーヌは彼女の指輪を指に受け、夫となって湖の王として宮殿に行くよう哀願されますが、「私」が「やがて死ぬ運命にある人間の女のほうが好きだ」と答えると、彼女は機嫌を損(そこ)ね、「青い窓ガラスに白々と流れる水滴となって消え去った」ということです。(岩波文庫”夜のガスパール” 及川茂訳)

(”架空の花” 油絵)