夏の終わり

仕事しながらラジオ聞いていて、フジファブリックの”若者のすべて”が時々流れてくるようになると、夏も終わりに近づいたということですね。

「真夏のピークが去った 天気予報士が テレビで言ってた」で始まるこの曲は、晩夏の今ころの気分をよく伝えていて、いい雰囲気です。

”若者のすべて”というタイトルは少し変わってますけどね。

私はもう若者ではありませんが、曲を聴いていると、移り行く季節の中でも特に印象深く、暑さと、太陽と、解放感と、入道雲と、アイスキャンディーと、少しのメランコリーに彩(いろど)られた、特有の季節である夏の終わりが、胸に満ちてきます。

まだまだ暑いですが、心の底のほうでは、なんとなくその終わりを意識し始めていて、ミンミンゼミやアブラゼミの鳴き声にヒグラシやツクツクホーシが加わり、ピーカンだった夏空が、突然高くなり、うろこ雲が上空に広がっていたりするのを見つけたとき、始まったころは永遠に思えた今年の夏も、なんだかもう終わりに近づいてきたのだな、と感じて、季節は確実にめぐっているということを実感する、そんな今日このころです。

年齢について

これは人に言うとバカにされそうなので、あんまり言わないようにしてるんですけど、私は肉体的には年取ってますが、私自身は若いままだと思ってるんですよね。

人間は年齢重ねると、身体も昔みたいには動かなくなりますけど、これは運動したりストレッチやなんやかんやをね、義務だと思って続けてれば、老化はあんまりしないですね。

まあ義務と言うとちょっと気が滅入る人は、「今日一日はがんばってみるか。その後はやめたっていいんだよね」なんて気軽に考えて、その日一日やってみると、次もその連続で、気がつくと何年も続いていたりします。

そうするとゲンキンなもので、「まあ今日もやってみっか!」なんてね、やめるのがもったいなくなってきたりしてね。週2~3回、運動してると、まあ身体はそれなりに動くもんですよ。

作家の村上春樹さんが、「体は動かしているところは老化は止まってます。動かさないところは死んでいきます」みたいなことを書いてましたけど、本当にそうだと思いますね。

だから身体はそういうことで若く保って、心のほうはといえば、これは「年とった」と思わなきゃいいんですから簡単なものです。

私は、頭の中の妄想なんて高校生レベルですから、老成なんて言葉とは無縁ですね。だから表面的には年齢相応のマジメな顔してますけど、頭の中は脳天気と言いますか、おバカなまんまですね。「それでいいんでないかい?」なんて思ってますけどね。

(朝日新聞社刊「おしごと年鑑2016」に描いたイラスト)

古代ギリシャの音楽

昔のレコード、引っ張り出してみました。古代ギリシャから現代によみがえった音楽、パピルスや大理石板に奇跡的に保存されていた音符の断片から復元され、演奏する楽器も当時のものを忠実に再現して奏(かな)でられる音楽、どこか重々しく、遠い時代の世界の空気さえも現代に出現させるような、そんな音楽、「ミューズへの賛歌・古代ギリシャの音楽」(ビクター音楽産業)です。

演奏してるのはアトリウム・ムジケー古楽合奏団。全22曲は、ときに前ぶれもなく断ち切られるように終わってしまうものもありますが、その曲調はヨーロッパ的というよりアトランティス的といいますか、なんだか古代のかおりのする独特の旋律とリズムの曲ばかりが収録されていました。

(”ミューズへの賛歌・古代ギリシャの音楽” ジャケット)

ずいぶん昔、新宿のレコード店でたまたまそのレコードを買い、知り合いの何人かでそれを聴いていると、驚いたことに一人の女性が涙を流し始めました。聴き終わってそのわけをたずねると、「目の前で大地が海に沈んでいくのが見えて、それは遠い昔に自分が住んでいた場所で、そこはやがて海に飲みこまれ、私も死んでしまった」とのことでした。

「私たちは国が沈んでいく原因を知っていたのに、それをどうすることもできなかった」と言って、「今度はあんなことにならないようにしなければ」と言ってましたけど、過去生の記憶なんでしょうかね?

” ピアノ協奏曲5番「皇帝」”

今日は宮沢賢治のイラストの修正を急がなきゃいけないのに、夕飯前についCDを聴いてしまいました。ベートーヴェン作曲のピアノ協奏曲5番です。

もう何年も(あるいは、全体を通して聴いたのは何十年ぶりかも、です)聴いてなかったのを、この夏の夜、ふいに思い立って、私がもっとも敬愛するピアニスト、ヴェルヘルム・バックハウスのピアノに、オーケストラはハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮でウィーン・フィルハーモニーで聴きました。

1959年の録音なのに、その演奏はまったく色あせることなく、バックハウスの弾く名器、ベーゼンドルファーの重厚な独特の音色は、昔に聴いたときのままでした(あたりまえですけど)。

1809年にベートーヴェンによって作曲されたこのピアノ協奏曲は、「皇帝」という名称で知られていますが、作曲されてから200年が過ぎていても、その響きは少しも古びることもなく、聴く者の胸に怒涛(どとう)のごとく迫ってきます。

ベートーヴェンのシンフォニー5番もそうですが、こういう曲を聴くと、いつでもクラシック音楽の持つスゴみと、深みに圧倒されてしまいます。

音楽的才能に恵まれた天才が、おおいなる仕事をすると、どれほどのものが出来あがるのか、その奇跡のような所業をまざまざと見せつけてくれる、これこそまさに魂が高められる音楽というものでしょう。

なんてことを言ってる場合じゃなく、あ~早くイラスト修正しなきゃいけない…です。

(こちら、LPレコードの” 皇帝 ”)

呼吸

朝、顔を洗うときは、思わず深呼吸といいますか、腹式呼吸といいますか、鼻から息を吸って、口を少しすぼめて強く息をはく呼吸を数回くり返しますね。

まあクセなんですが、酸素が体じゅうに行き渡るような、全身がプラーナで満たされるような気がして、なんとなくいいかんじです。

呼吸というのは実にふしぎで、呼吸することなんか忘れてしまっていても、眠っているときでも、ちゃんと続いていて、そうかといって、心臓の鼓動や内臓の活動のように、完全に自律的に起こってるというのでもなく、自分で意識的にすることもできるという、なんとも神秘な現象です。

「神が呼吸を人まかせにしなかったのは良かった。それが人まかせにされていたなら、人は呼吸のことなどすぐに忘れて、死んでしまっていただろう」と、バグワン・シュリ・ラジニーシが言ってましたが、本当にそうですね。

動物は意図的に呼吸を変えたりしないでしょうね。おそらく地球上で唯一、人間だけが自らの意思で呼吸をコントロールする生きものだと思います。

呼吸することに気づき、それを変えられるというのは、人間が天から自由意志を与えられたことの象徴であり、それは神と人との接点であり、自由意志を持つ人間のきわだった特徴だと、私は思いますね。

そんなわけで(どんなわけだ?)、今日も深呼吸で元気いっぱいといきましょう。

(呼吸について書かれた良い本の例)

ジョルジュ・デ・キリコ

作者の名前がその作風をも現わしている例としましては、キリコでしょうね。ジョルジュ・デ・キリコ。幾何学的で無機的で、謎めいていて、どこか預言的響きをはらんでいて、イタリアの広場の、人気(ひとけ)のない午後の、敷石に落ちる色濃い影と、石壁が反射する秋の陽光のコントラストが生むめまいのような印象と…。そういったもののすべてと、それ以外にもどうしても思い出せない気がかりな夢の断片のような、言葉にならない気分、そのすべてを、この名前は含んでいますね。

ふしぎという言葉は、イタリア語ではメラヴィーリャと言うそうですが、それは「見ることの驚き」、「見えることの驚き」だということです。

キリコとはまさにこの「見ることの驚き」に満ちた形而上絵画の唯一にして無二の作者であり、その名前の中にすでにメラヴィーリャが預言されていると、私は思いますね。

キリコのような絵画に、何か意味を期待するのはまちがいでしょう。まあ、あらゆる絵画は、それが意味を意図して描かれたものでない限り、意味を考えるのは不毛なことです。特にキリコの絵画は、意味などというものからはもっとも遠くにある、まさに見ることの驚き、見えることの驚きに満ちた芸術であると言えるでしょう。

 

” 象ねずみの校庭 ”

ほんとうに奇妙な曲というものはあるもので、1972年にヒットした” 赤色エレジー  ”で有名な稀代の歌うたい、あがた森魚(もりお)さんが、1977年から8年の歳月をかけて完成させたアルバム、” 永遠の遠国 ”の中の一曲、” 象ねずみの校庭 ”なんかはそれですね。

このアルバム自体、大変に奇妙なもので、LP盤3枚組みで限定250部、2万5千円というとんでもないシロモノ。もちろん私もオリジナルのLPを持ってるんじゃなくて、後に2枚組みのCDになったものを、神田の中古CDショップで購入して知ったというわけなのですが、その中には” 組曲「スターカッスル星の夜の爆発 」”とか、” 水晶になりたい ”、” 私のキリギリス ”など、美しくもあやしげな曲がいっぱいで、中でも”  象ねずみの校庭 ”は、ノスタルジックでシュールで、ちょっとイッてしまった人の作ったような狂気直前のあやうさがあって、私は大変に気に入っています。

残念なことにユーチューブでは見つけられなかったですね。(どうしても聴きたい人は、うちにおいでください。CDでお聴かせします)

「象ねずみの風にまかれた 夏休みの雲の高い日 ウォウォウォおどろう 踊り場で ウォウォウォおどろう 校庭で ~白いカーテンがゆれる 夏休みの終わるまで…」と歌われる曲調は、クラシカルであるような、プログレッシブであるような、奇妙な特有の憂(うれ)いに満ちていて、とりつかれると戻って来れそうにない、そんなあやうい香りのする奇想の曲です。

ユーチューブで聴けるアルバム収録曲としましては、「あがた森魚1987春の嵐の夜の手品師☆パールデコレーションの庭」なんかがありますね。

(” 永遠の遠国  ”CD)

” アフリカのことわざ ”

” アフリカのことわざ ”(東邦出版)という本のイラストを描きました。

内容はたとえばこんなのです。「あなたの怒りがどれほど熱くてもヤムイモは調理できない」。つまり怒りのエネルギーは役に立たない、というわけですね。

「余った食べものを保管するのに最もよい場所は、お隣(となり)さんのお腹(なか)の中です」なんてのは、分かち合いの精神でしょうね。

他にも、こんなのがあります。「心配とは想像力の誤用(ごよう)である」、なるほどね。「明日のことを思い悩むなかれ」って、キリストが言ってる、そのことですね。

「もし木登(きのぼ)りをするならば、あなたは同じ木から下(お)りなければならない」というのもあって、これは、おいしく食べるには空腹にならなければならないし、夜よく眠るためには昼間よく活動してなければならないということ、つまり夜に眠るために昼間一生懸命に眠る練習をしたってダメで、物事は、一見(いっけん)まったく反対のように思えることの中に、それを成すヒケツが含まれている、というような意味でしょうね。

「幸福な男は愛する女と結婚する。もっと幸福な男は結婚した女を愛する」なんてのもあります。このページを開いて、奥さんにプレゼントすると、月々のおこづかい少し上げてもらえたりしてね。

(発売早々、重版だそうです)

” 豊穣の雨 ”

このあたりはもう何日、雨が降ってないのでしょうか?

大地は干からび、草も木もしおれるばかり、夕方に水道につないだホースの先を指でつまんで、水を雨つぶのように拡散させ、庭に水まきしても、天から降る本当の雨には及ぶはずもなく、乾いた土に水はみるみる吸いこまれ、みるみる乾いて、とても干天の慈雨というようにはいかなくて、バラも、ローズマリーも、タイムも、青じそも、息絶えだえ、立ちのぼるのは焼けた土のにおいと、そこにゆらめくカゲロウだけという、なんとも大変な日照り続きの毎日です。

夜になって、網戸ごしに少し風が部屋に入ると、それに乗って庭からはウマオイがガチャガチャと鳴く声が聞こえてきます。

すると私は Zabadak の CD ”Remains ”を4曲目から聴き始めます。鐘の鳴る音から始まるシングルバージョンの ”harvest  rain (豊穣の雨)”です。

このバージョンは重低音がより充実し、ダイナミックレンジが広がって、この曲のイメージをより荘厳なものとしていて、その響きに押されてか、庭のウマオイは先ほどから鳴き声をひそめています。

「 harvest rain   音もなく降りそそげ harvest rain   傷ついたこの土地(つち)に」。

この歌詞が天に通じて、明日にでも豊穣の雨が土地(つち)に降り注ぐということになれば、これはまさに雨を呼ぶ曲、豊穣の女神 デーメーテールにささげられた畢生(ひっせい)の音楽ということになろうというものです。

 

( Zabadak ” Remains “  CD)

” 真珠貝の歌 ”

丸顔に黒ぶちメガネがよく似合うジェントルマン、ビリー・ヴォーンひきいるビリー・ヴォーン楽団の演奏する夏の曲、”真珠貝の歌 ”。いいですね~。

小学校3年か4年の夏休み、岡山の田舎(いなか)から、大阪のおじさんの家に、1週間くらい連れて行ってもらったとき、田舎にはない大きなスーパーの店内に、この”真珠貝の歌 ”が流れてたのを覚えてます。

コンクリートと人ゴミの中を歩いてきて、強烈な夏の太陽で焼かれた身体には天国かと思われるほどの店内の涼しさに陶然(とうぜん)となっていると、食品売場から流れてくる夏特有のくだもののにおい、モモやなんかの甘いにおいに、ヴィヴラフォンの奏でるこの曲のメロディーは、本当によく似合ってました。

それが” 真珠貝の歌 ”というタイトルだと知ったのは、中学生になってからですが、昭和の高度成長期の、活気に満ちた街にあふれる明朗な快活さが、この曲を聴くたびに、私の胸によみがえり、同時にまたその曲調が、はるか夏の楽園へのあこがれを呼びさましてもくれて、私にとって古きよき夏の名曲のひとつになっています。

(以前、渋谷東急ハンズで買った貝殻)