ペテルギウス大爆発?

夜中に外に出て空を見上げると、雲のない日には星がいっぱいです。

星座は詳しくないんですが、オリオン座のペテルギウスは知ってます。1等星なのでよく目立ちます。

うっすらと赤い色をしていて、これは赤色超巨星のためで、星の進化の最終段階にあり、いつ超新星爆発を起こしてもおかしくないのだそうです。

じつはもう爆発してるのかも知れません。

地球からは642光年離れてるってことは、爆発しててもその光がこちらに届くのに642年かかるので、日本なら室町時代、一休さんが生きてたころ爆発したとして、その光は今ごろになって地球に届くというわけで、地球からはまだそれが見えてないだけかも知れないですからね。

ペテルギウスは太陽の千倍の大きさといいますから、太陽系にあれば太陽から木星軌道にまで達する巨大さで、それが爆発したら、それこそ大騒動ですよ。

急に夜空が光り輝く超新星爆発。それ以来、昼間でも空には2つの太陽が見えているなんてことになるワケで、SF映画そこのけの大迫力でしょうね。

その光の放射を受けて、地球の地軸は傾きが復元され、世界の気候は温暖となり、人類は新たな進化のステージにとステップアップするという、いわば地球のおおいなる目覚めの時代の到来、なんてことにならないともかぎらないです。

(仕事部屋の星形のテーブルランプ)

アリスのウサギ

うちの家から車で5~6分のところにあるお菓子屋の” 板屋 ”さんに、” 不思議の国のアリス ”に出てくるうさぎの置物が飾ってあって、行くたびに「いいな~、これ欲しいな~」と思ってたんですね。

大きさはそうですね、高さ20センチくらいでしょうか。身体はフェルトかなにかで作ってあるような…、衣装は” 不思議の国~”の中で、ウサギが裁判の場面でトランペットを吹いてるときの礼装です。

「これ、私の水彩画、”ネコとバラの庭”と交換してくれないかな~」なんて思ったりしましたが、唐突にそんなことを店の人に言うのもなんだしな~、とも思って。

そんななか、先日、ネットを見てたら、そのウサギの置物と似た、良さそうなのが見つかって、買うことにしました。

フェルトや布製のものではなかったですが、大きな懐中時計を持ってて、姿も良くてね。

取扱説明書には、「満月の夜には動きだして、どこかに行くことがあります。玄関のドアは必ず施錠してください」と書いてありました。

「たいへんだ、たいへんだ、おくれてしまうぞ!」なんて言いながら、王さまの法廷で伝令を読み上げるためかなにか、そんな用事で出かけて行くんでしょうかね。

” クリスマスの思い出 ”

11月もそろそろ終わりに近い朝、ぼくのおばあちゃんは、「おやまあ、フルーツケーキの支度(したく)にかかるにはもってこいの天気だよ!」と言い、クリスマス用のフルーツケーキを30個もこさえる準備にかかります。

おばあちゃんは1ドルもするまるで本物のようなビロードのバラのついた麦わら帽をかぶり、ぼくと犬のクウィーニーと一緒にオンボロの乳母車を押して、ピカン林にケーキに入れる実を拾いに行きます。

それからおばあちゃんとぼくは、1年間貯めた小銭を持って、川のほとりにあるいかがわしいキャバレーに、上等のウイスキーを1クォート買いに行きます。

そこのマスターのジョーンズさんは、「で、その飲み助てえのは、いったい2人のうちのどっちなんだね?」と聞くので、「いいえ、あの、フルーツケーキをこしらえるのにいるんです」と答え、5セント白銅だの、10セント銀貨だのをジャラジャラ出して代金を支払おうとします。

ジョーンズさんはそのお金をぼくたちの財布にもどしながらこう言います。「あのね、そのかわり、フルーツケーキを焼いたら1つとどけてくれねえか」。

4日かけて焼き上げたケーキは全部で31個。おばあちゃんはそれを、なんとなしに心を引かれた人たち、ローズヴェルト大統領とか、牧師のJ・C・ルーシーご夫妻とか、バスの運転手さんなんかにプレゼントします。

いよいよクリスマスの近づいた日、最後のケースを郵便局から送り終えたおばあちゃんは、ビンの底にまだ2インチほどウイスキーが残っているから「これでひとつわしらもお祝いをしよう」と言ってききません。そして、そして、…。

これは7歳のぼくが語る、アメリカがまだ古き良きアメリカだったころの美しい物語り、トールマン・カポーティの短編小説 ” クリスマスの思い出 ”です。

(うちの玄関のクリスマス飾り)

” Around The Secret ”

私は魔法という言葉に惹(ひ)かれますね。

「魔」という言葉だけだとあまりいい感じはしないですけど、これに「法」がついて魔法となると、なんともふしぎな魅力的な言葉に聞こえてきます。

森の中にあるお菓子でできた家や、空飛ぶホウキ、言葉をしゃべる花や、踊りだす人形、予感に満ちた月や、さまよえる吟遊詩人、星の姿をした精霊や、山の古きほこらに住めるドラゴンなど、なんだか童話チックでおとぎ話しめいていて、どこかおそろしげで美しく、現実世界から逃避して夢の中に迷いこむといいますか、誘いこまれてしまうような、そんな連想を呼び起こす言葉です。

ザバダックのアルバム  ” 遠い音楽  ”の中の曲、”Around  The  Secret  ”はそんな魔法のような気分をメロディーにして聴かせてくれる、ちょっとふしぎな名曲です。

「まわれまわれ 星たちのように まわれまわれ 時計まわり」で始まるこの曲は、本当に魔法の言葉に満ちていて、おとぎ話しの次元に連れ去られるような心地がしますね。

「おどれおどれ 十二の部屋で おどれおどれ 手負いの山羊 魔女の谷間 西から 東へ 風の裾は 右から 左へ」と続きます。ユーチューブではライブの映像で見られます。後半の歌詞、「坂の車輪はもう止まらない 壺(つぼ)に蜜があふれても~」というところが、CDでは上野洋子嬢のソロになっていますが、ライブでは輪唱になっていて、これまた素敵です。

(”天使と一角獣2”)

ネコの顔

ネコの写真家で有名な岩合(いわごう)さんの番組をNHKでやっていて、見ていると、ナポリだったかどこだったか、たしかイタリアの地方じゃないかと思うんですけど、足のところだけ白い黒ネコが登場して、飼い主からは「ブーツ」と呼ばれてましたね。

うちにメシ食べに来る黒ネコの黒ベエもこの仲間で、足のところがソックスを履いてるように白いです。

本人(本猫)はそのことをまったく気にしてないようですが、見ている側としましては、おもむきがあって、なんとも言えないおもしろみがありますね。

まあ、おもしろみと言えばそれは足の白さだけでなく、黒い顔の口のまわりが白いという、そのこともじつにいい味となっています。

この白黒ツートンカラーの顔を黒ベエはまず自分で自覚することはないワケですから、なんだかもったいないような気もしますが、しかし、自分の顔がこんなにオチャメなんだと自覚して、それを鼻にかけるようだと、それはそれで鼻もちならず、イヤな性格のネコということになるでしょうから、黒ベエが自分の顔のことを知らず、一生を過ごすというのは、それはそれで良いことなのかも知れません。

(食後の黒ベエ)

運転免許

私は運転免許を取ったのは遅いんですね。40歳を過ぎてからですから。

それまでは「体重60キロか70キロくらいの人間が移動するのに、1トンもある鉄のかたまりを、排気ガスを出しながら動かすなんて、効率的な方法じゃないだろう」なんてうそぶいてました。

じゃあ、他にもっと効率のいい方法があるのか、と聞かれても、もちろんそんなのなくて、まあ簡単なはなし、免許を取りに教習所に通ったりするのが、めんどくさかったというのが本当のところです。

「神との対話」という本を書いたニール・ドナルド・ウォルッシュという人が、その本の中で「やらなくてはいけないことをやるというのが苦手」と書いてましたが、私はこの気持ちがよくわかる気がして、自動車の免許は「取らなきゃあいけない」ことではないですが、私くらいの年代で免許を持ってないという人はまわりにほとんどいなかったですから、ほぼ「取らなきゃあいけない」部類のことに入っていたと思いますけど、まさにそういうことが私は苦手という困った性格だったわけです。

免許を持ってる今でも、必要でない限り車はあまり運転しないですね。

そして、この歳になって気づいたんですが、私はじつは出不精で、あちこち移動するのを好まないという、なんとも車の運転に向かない性質さえ持っていたという事実です。だから私が自動車を運転しているというのは、一見(いっけん)普通のことのようにみえますが、それはじつに多くのことを克服した結果であるということなのです。

日産フィガロ、あるいはマーチ・ボレロ

今、乗ってる車が車検が切れるので、買い替えようと思ってるのですけど、私の場合、車はただただ見ためで選びますね(まあ、その前に低価格というのは絶対ですけど)。

どうも最近のものはあんまり好きじゃなくて、レトロ感のある昔のまるっこいのが好きですね。

理想はイタリアのフィアット500ですけど、これは中古でもけっこうな値段するので、ちょっとね~。2010年より前のモデルだと、わりと安いのもありますけど、ミッションが壊れやすいってウワサで、その交換に数十万円かかるらしいなんてことも聞きまして、躊躇(ちゅうちょ)しますね。

日本車だと日産のフィガロていうのがいいんですけど、1991年製ですから、走行距離も10万キロくらい行ってるのが多くて、そうでないのだと、これまたけっこうな値段なんですね。

まあ10万キロでもいいか…とも思いますが、もともと販売台数が少ないので、中古車もそんなに多くなくて、安い価格のはなかなか見つかりません。

そういうことで、次の候補は、日産マーチのボレロという機種で、フロントグリルがレトロな形のがあって、私の好みなんですけど、これまた古くて、だから中古車もなかなか見つからなくて…困ったもんです。

私は特に車好きの人間じゃなくて、乗るのもせいぜい近所に買い物に行くくらいなんですけど、単なる見ための部分でひっかかって、中古車探しが難航してますね。

読みかけの本

先日、小説 ”ティファニーで朝食を ”にちょっと目を通そうと思って、本の山から文庫本を見つけだして読み始めたんですけど、仕事が忙しくて中断したままになってます。

読みかけて中断してる本は、この文庫の他にも、アンドルー・ランド著 ” 夢と幽霊の書 ”、フランツ・カフカの ” 審判 ”、平田篤胤著 ” 仙境異聞 勝五郎再生記聞 ”、久賀谷亮著 ” 脳が老けない世界一シンプルな方法 ” 、梨木香歩著 ” 不思議な羅針盤 ” 、巖谷國士著 ” ヨーロッパ夢の町を歩く ” などですが、” ヨーロッパ夢の町~”は、中断というのとはちょっとちがうんですね。

仕事中の休憩とか、コーヒー飲んだ後とか、その他、少し時間があるようなとき、ほんの2~3ページ読み進めるという読みかたで、まあ、エッセイなので、そんなふうに読んでも困らないという、その気安さから、なんとなく、そんな空き時間にちょっとずつ目を通す本ということになってます。

でも、内容は読み流すようなものかというと、そんなことはなくて、じつに味わい深い文章で、著者の巖谷さんは ” シュールレアリスムとは何か”などの著作でも有名なフランス文学者ですが、時々、文学者というには少し突飛(とっぴ)な表現が文中に出てきて、私なんかそこにシュールな魅力を感じたりしています。

たとえば文中に登場するワルシャワの文化科学宮殿につては、「この宮殿はなんともばかでかい。ほとんど人間の寸法に合っていない。遠いむかしに飛来したどこかの宇宙人が気まぐれにたてて、そのまま放置していった遺跡のような建造物だ。」なんて書いてあって、異国情緒ならぬ異星情緒をそそられます。

 

バラ一輪、咲きました

12月になって、いよいよ寒さもきびしくなってきたという今日この頃、なんと庭にバラが一輪、咲きかけています。

う~ん、こりゃあふしぎ(四季咲きのバラではよくあることなんですかね?バラ詳しくないのでわからないですが)。

昔、インドの貧しいクツ職人、スダースは、自分の家の庭の池に、季節はずれのハスの花が咲いているのを見つけ、「これはきっと高い値で売れるはずだ」と、ハス一輪をもって歩いていると、町一番の金持ちが馬車で通りかかり、「その花を金貨500枚で売ってくれ。私はそれを、今、街はずれの林の中に滞在しておられるゴータマ・ブッダ様の足もとに供えたい」と言ったそうです。

すると、そこに今度は国王の馬車が停まり、国王はスダースに、「その花を金貨2000枚で売ってくれ。私こそ、その花をブッダ様の足元にお供えしたい」と言ったらしいです。

金持ちと国王はハスの花一輪をめぐってセリあい、その金額は途方もないものになっていったということです。

これを聞いていたスダースは次のように言いました。「私は花の値段がどれほどになったか、もうわかりませんが、これを売る気はなくなりました。それに私はそんなにはいらないのです」。

驚く国王と金持ちにスダースは、「お2人ともがこの花をお供えしたいといわれるほどの方なら、そのブッダ様に私はこの花を直接ささげたいと思います。私はこの機会を逃したくありません」。

やがて、国王の馬車、お金持ち、花を手にしたスダースが、仏陀のいる場所に到着します。

花をささげるスダースにブッダは、「スダースよ、おまえは王たちの申し出を受けるべきだった。彼らは大金をあなたに与えようとしていたのに、私はおまえになにもやることができない」。

それでもスダースはブッダに花をささげ、ブッダは手にしたその花一輪を、長い沈黙の後、弟子のひとり、マハーカーシャパに与えたということです。

「私があなたに与えるのは、ただ花というだけではない。私は自分の光、香り、すべての目覚めをあなたに伝授しよう。このハスはその象徴にすぎない」。

これが禅の始まりということのようです。和尚ラジニーシが講話の中でそう語っていました。私は話をだいぶはしょりましたけどね。

うちの庭に咲いた冬のバラ一輪、でもこの花からは、そのような途方もない神秘な話は生まれそうにありませんけど。

” ヨーロッパの不思議な町 ”

ヨーロッパ旅行なんて、夢のまた夢ですね。ずいぶん前近代的な謂(い)いだと思われるかも知れませんが、今の私にとっては本当にそんなかんじですね。

でも、もし行けるとしたら、通りいっぺんの観光旅行なんかしたくないですね。

その町の、その田園の、石づくりの家や壁の肌ざわりを感じ(触ってというわけじゃないですけど)、樹々や草や花のかおりを呼吸し、そして見る、つまり、その存在としてのヨーロッパを、見ることの驚きに圧倒されつつも、さりげない態度でもって、そこやかしこをただただ見て歩いてみたい、と思いますけどね。

まあそんな私を、時間もお金もかからず、ヨーロッパの町を歩いたような気分にさせてくれるということで、私が時々読み返す本が、巖谷國士(いわやくにお)さん著 ” ヨーロッパの不思議な町 ”(ちくま文庫刊)です。

裏表紙の解説に、「魅力あふれる偏愛的都市エッセイ」と書いてあるとおり、「夢みるプラハ」が、「イタリアの不思議な町」が、「絵のなかの光景━デルフト」が、午睡のあと、まだ醒(さ)めやらぬ夢の続きをたどりでもするような、特有の筆致で描かれていて、引きこまれます。

イタリアやスペインの広場については、こう書かれています。「広場にくりだしてくる人波というのはたしかに驚くべきもので、~出会えば抱きあい叫びあい~その足もとでは、子どもたち、犬や猫たちが駆けぬけ、トマトがころがりビラが舞い歓声があがり、その歓声がまたひとつひとつ区別できない太いざわめきのかたまりになって、周囲の建物の壁にこだまする~これはもうなにか旅人にとって魔法のような体験だといってよいだろう」と。

この本はたしかに「反ガイドブック」的ヨーロッパ紀行本という言葉がぴったりの素敵でふしぎな書物です。