「栞(しおり)と紙魚子(しみこ)と夜の魚」

”栞(しおり)と紙魚子(しみこ)~”はマンガ界の奇才、諸星大二郎(もろほしだいじろう)先生が、少女向けホラー雑誌に不定期連載された奇妙でふしぎなマンガです。

東京の胃の頭(いのがしら)町に住む女子高生、本屋の娘、栞(しおり)と、古本屋の娘、紙魚子(しみこ)の、ちょっとホラーで怪奇でおかしな日常が描かれていて、私は好きですね。

これの単行本4巻目、”夜の魚”の中に出てくる”古本地獄屋敷”は、一種カフカ的世界が展開していて、目まいを覚えます。

ある日、紙魚子のお父さんが、アパートをえんえんと建て増した城のような屋敷に古本を買い取りに出かけたまま、行方不明になってしまいます。

栞と紙魚子が訪ねてみると、その中は古本が壁まで積み上げられた部屋や廊下が、迷路のように続いていて、無限とも思える本の中には、安い文庫本もあれば、まぼろしの稀覯本(きこうぼん)もあり、そこに棲(す)みついた古本マニアが何年も本を探し続けているという奇妙な場所で…。

その奥深くに足を踏み入れた2人は、この迷路の奇妙な仕組みの中で、古本の迷宮にとらわれてしまい…というストーリーで、神田神保町もびっくりの古本屋敷の幻想が展開していきます。はたして、行方不明のお父さんは見つけられるのでしょうか…。

(栞と紙魚子の模写)

水について

子どものころ、雨がふると家の縁側(えんがわ)に座って、庭先を流れる雨水を見てるのが好きでしたね。

古い家で、縁側の少し先は下りの石段になっていたので、雨がザアザアぶりのときは、水がけっこうな流れを作っていて、地面にある木の根や段差のところで、流れがクルクルうずを巻いたり、うねったりしていて、いつまで見ていても飽(あ)きることがなかったです。

考えてみると、水というのはふしぎなもので、こんなに透明で、形がさだまらず、分散したりくっついたり、あげくには蒸発して見えなくなったり、それがまた雨になって降ってきたりするなんてものは、他にないですよね。

ある本に「アンモニア、メタン、炭酸ガス~など、水と同じ分子量の分子はどれもみな気体状なのが通常で…なぜ水が液体なのかを未だ解明できないでいる~」と書いてあり、「これは水素ブリッジによる連結のためと説明されているが~水素ブリッジによる弱い連結では、隣接する分子同士が結合するのは不可能」とありました。

私は科学者じゃあないのでわかりませんが、本当にそうなら、こんなにありふれた水のことも、人間はよくわかっていないことになりますね。

もしかすると水を水として存在させている未知のふしぎな力が、この世にはあるのかも…なんて。

(鉛筆による習作 1977年ころ)

川で泳いだこと

夏休みになると、昔、このあたりの小学生は近くの川で泳ぐのが日課でした。

私が小学校1年か2年のころだったと思います。暑さもピークになる午後1時、当番の見張り役のおばさんの「ピー」という笛の音で、子どもたちはいっせいに川にかけこみました。

上級生はどんどん深いほうに泳いで行き、水中にもぐったり、泳ぎの競争をしたりしていましたが、まだ泳げなかった私は、川の浅いところでパシャパシャと同級生と水をかけあって遊んでました。

そんなとき、ふと思いつき、見張りのおばさんがこちらを見ているのを確かめると、私はその浅瀬で腹ばいになり、手を川底につけて進み、泳いでいるふりをして見せました。

水深は30㎝くらいなので、手はすぐに川底について安心なのですが、おばさんのところから見ると、まるで私が泳いでいるように見えたと思います。おばさんは「アラッ!」という顔で私を見て、「およげるね~!」と言って驚いていました。

私は得意になって、おばさんのほうを見ながら、そのまま泳ぐふりを続けました。ところが、しばらくすると私は、手を川底につけなくても自分の体が水に浮いていることに気づきました。

泳ぐふりをしているうちに、私は本当に泳げてしまってたんですね。

私はそのままどんどん泳いで行って、そうしていると、私は昨日まで自分が泳げなかったことが、なんだかウソのような気がして、キラキラ光る川面にゆられて、まるで自分が魚になったような自由を感じたものでした。

(子どものころ泳いでいた川)

回る、回る

この世界では、いろんなものが回ってますね。

地球もクルクル自転しながら、公転もしていて、銀河だって回っているらしいし、原子のまわりを電子も回っていて、この机の上のコップは止まっているように見えても、じつはその中で電子が回り続けているなんて、なんだかふしぎです。

イスラム教神秘主義のスーフィズムには、旋回し続けることで神と一体になるというスーフィーダンスというのがありますし、トラが木のまわりを回っているうちにバターになってしまうなんて童話もあったような…。

子どものころ夜の庭で星空を見上げながら、その場でグルグル回っていると、なんだか星の世界に上昇して行くような奇妙な気分がしたのを覚えています。

このように、回るというのはちょっとふしぎで、どこかおとぎ話しチックなことのように思えます。

E・T・A・ホフマンの小説、”砂男”は、眼球、眼鏡、望遠鏡といったものにとらわれたナタナエルが、自分の恋した美少女オリンピアが人間でなく、自動人形だったことを知り正気を失い、「まわれ、まわれ、木の人形。まわれ、まわれ、お人形!」と口走りながら、塔から身を投げてしまうという、世にも奇怪な物語りです。

ザバダックの名曲、”Around The Secret”では、その中で、「まわれまわれ、星たちのように、まわれまわれ、時計回り~」と歌われていて、それを聞いていると、魔法のようなメロディーとあいまって、なんだかおとぎの世界への扉(とびら)がこっそりと開かれたような、ふしぎな気分になってきます。

(鉛筆画 高3のころ)

銀河カウンシル作戦本部

これまで読んだスピリチュアル系の本の中で、一番イッてしまっているのが”ET地球大作戦”とうい本ですね(コスモ・テン発行)。タイトルからしてすでにイってます。「大作戦」ですからね。

著者は「銀河カウンシル作戦本部&ゾープ・ジョー」となっていて、もともとはアメリカ人のダイアナ・ルッピという人が情報をチャネリングしていて、その過程で「彼女の配線が溶解」してしまい、「人間の要素は爪のかけらほども残ってないETとしてのゾープ・ジョー」になってしまい、その彼女(彼?)が、地球という惑星の進化のために、あらかじめ地球に転生してきているETたち(本人たちはそのことをほぼ忘れているらしいですが)向けに受信した、銀河カウンシル作戦本部からの「地球作戦実行マニュアル」というのが、この本の全容です。

その冒頭には「過去1000年にわたって、地球はこの時のために準備を積み重ねてきた~今こそ地球が”光の軍隊”の名において領土を取り戻し~宇宙社会にドアを解放する時である」と書かれていて、ただし「我々が地球にやってきたのは侵略が目的ではない。~我々はこの惑星を宇宙船団で包囲し、地球が変質する過程を助長する共鳴の磁場を形成している」のだそうです。

地球の住人は「現在何が起きているかを知っていると絶対的に確信しているため、何が起きているのか全然理解できず、気づいたときにはすべてが終わっていたということになるだろう」ということで「機能障害を起こしている惑星で作戦を展開すれば、それなりの危険はあるが」、諸君は「自分自身の本質と、地球に何をしにきたのかを忘れることなく、星を見続けるように」と太字書きされています。

地球に来てるETの皆さんには必携のマニュアルです。

夏休み

子どものころは夏休みの始まるとき、それが永遠に続くような気がしてましたね。

朝、近所の広場でやってるラジオ体操に行って、カードにスタンプを押してもらって、家に帰って朝ごはんを食べると、さあ、きょう一日、何をしようか、なんでもできるし、畳(たたみ)の上に寝っころがってゴロゴロしてたっていいわけで、気の遠くなるような開放感に満たされてました。

外に出ると青い空に入道雲がわいていて、近くの谷川に流れる水はキラキラしていて、道にはかげろうが立ちのぼり、まわりの樹々からはセミの声がふりそそいで、暑くて楽しくて、これから捕まえるカブトムシのことや、冷やしたスイカのことや、友だちと川で遊ぶことや、あれやこれやでもういっぱいになって、夏休みの宿題なんか一番あとまわしになって、気分は夏空の彼方(かなた)にでも飛んで行きそうな、そんな心地でした。

でも、そんな中にも、いま思えば夏にはどこか哀しさがひそんでいて、それは、この暑さもキラキラもいつか夢のように過ぎ去ってしまい、気がつくと終わりをむかえているという、そのことが子供の私にとって、夏のなかにひそむ哀しさとして感じられたのかもしれません。

夏休みの終盤になっても、宿題はほぼ手つかずのままでしたしね。(”不思議な夏休み”鉛筆画)

ホタルを見に行く

私が小学生のころ、夏の夜に近くの川の堤防に、家族でよくホタルを見に行きました。

そのころは、小学生が夜に外に行くということは、ほとんどなかったので、、夜、懐中電灯で足もとを照らしながら歩くというのは新鮮な体験でした。

夏の夜の堤防に出ると、闇の中で川の流れる音が間近かに聞こえ、あたり一面、うす緑色の光を点滅させながら飛ぶ無数のホタルで、そこはまるで夢のような風景でした。

近所の友だちも家族で来ているらしく声が聞こえるのですが、暗くて友だちのいる場所はよくわかりません。

声をたよりに進んで行って、やっと会えた私と友だちは、昼間とは少し違った気分で、肩を組んでお互いをたしかめ合ったりしました。

ホタルをつかまえるのは簡単でした。まわりじゅう本当にたくさん飛んでいるので、手のひらをひろげて振っているだけで、1~2匹ならすぐにつかまえられました。

手のひらの中にホタルを囲み、その光を見ていると、ホタルはモゾモゾとはい出してきて、やがてフワッと闇の中に飛んで行きました。ホタルのいた手のひらをかいでみると、夏草のような、削りたてのエンピツのような、ふしぎなにおいがしたのを覚えています。私の子供時代の夏の、思い出のにおいですね。

(”夏の夜” 鉛筆画)

「運命の女神パルカと死の天使」

フランスの画家、ギュスタフ・モローの作品に「運命の女神パルカと死の天使」という油彩画があります。

モローは象徴主義の画家で、その作品は聖書や神話を題材とした、幻想的、神秘的、耽美的なものであり、死の影に彩(いろど)られた優美な夢想に満ち満ちています。

モローの初期の作風は、古典的技法で描かれた精緻(せいち)なものですが、後期の作であるこの「運命の女神パルカ~」では、まるで絵具が今にも流れだしそうな生々しい筆づかいにより、一種独特のリアリティーがあり、油絵のみが表現できる絵画的法悦のようなものが感じられる傑作となっています。

運命の女神はギリシャ神話に登場する神々で、パルカは通常、クローソー(紡ぐ者)として知られていて、他にラキシス(運命を割り当てる者)、アトロポス(糸を断つ者)の三姉妹から成っています。

イギリスのプログレッシブロックグループ、EL&PのファーストアルバムのB面、重厚なパイプオルガンの響きで始まる曲が、この「運命の女神」です。「クローソー」から「ラキシス」へと続き、そして「アトロポス」の終曲の重低音で運命の糸が断ち切られると、ハープシコードによるハイテンポなクラシカルロック「タンク」が始まり、ラストは幸福な男の人生の無情を歌った名曲、「ラッキーマン」で神秘的なフィナーレをむかえます。

このアルバムのA面「ナイフ・エッジ」の中には、バッハの「フランス組曲」の冒頭部分が出てきますが、キース・エマーソンによって演奏されるそのメロディーは、まさにプログレッシブロックと呼ぶにふさわしい、現代的な響きとなっているからふしぎです。

(”運命の女神パルカと死の天使” リキテックスによる模写)

影、あるいは鏡像

昔、”影踏み”なんていう素朴な遊びがありましたが、今の子供はやらないんでしょうね。

何人かでやる遊びで、日向(ひなた)に出て、鬼役の子供に影を踏まれたら、その子が鬼になって、だれかの影を踏もうと追いかけるというものですが、明治時代くらいまでの日本では、これは、夜、月明かりのもとでおこなわれていたということです。

影といえば、フランスに生まれドイツに住んだ詩人にして植物学者のシャミッソーによる幻想物語り”影をなくした男”は、主人公ペーター・シュレミールが、奇妙な灰色服の男と取引きをして、望みのままに金貨を取りだせる袋と引きかえに、自分の影を提供してしまうというお話しですが、これに刺激を受けて書かれたと言われる、E・T・A・ホフマンの”大晦日の夜の冒険”は、影ではなく、鏡に写る自分の姿をなくした男の奇妙な幻想譚です。

エラスムスは、大晦日の夜のパーティーをぬけ出して、イェーガー街の地下酒場に立ちより、そこで会った褐色(かっしょく)のマントの小男が、ピカピカの煙草入れをいやがり「やめろー、やめろってば、鏡が怖(こわ)いんだよう!」と口走るのを聴きます。

ここから、エラスムスが愛人にそそのかされて自分の鏡像を与えてしまうという物語りが展開していきますが、ホフマンのストーリーは、シャミッソーにくらべてより奇妙で幻想的で、さすが「自動人形」を題材としたバレエ作品”コッペリア”の原作である”砂男”の作者らしく、奇怪で気がかりな風合いの強い作品となっています。

(1980年ころのデッサン ”this night wounds time”)

「亜麻色の髪の乙女」

ドビュッシーの「前奏曲集 第1巻」の第8曲、「亜麻色の髪の乙女」は、天界の水辺から舞いおりてきたような音楽と言いますか、なんと言いますか、作曲家の意図さえもどこか超えて、彼方(かなた)に連れ去られてしまうような、典雅で清冽(せいれつ)なピアノ曲の小品です。

最初の第1音から、独特な透明な世界にとらわれて、それに続く1音ごとに、夢想的なあこがれの気分がつのっていき、いつまでも聴き続けていたいと思うにもかかわらず、短い曲なので、本当にいつもすぐ終わってしまい、私はなんだかひとり取り残されたような気分になってしまう、そんな名曲です。

私はこれを聴くとき、いつも水の底にある不可思議なものを眺(なが)めるような、なんとも言えない幻想的気分になるのですが、よくよく考えてみると、それはこの前奏曲集の第10曲目にある「沈める寺」というタイトルのイメージが、なぜか関係しているようで、私の頭の中で「亜麻色の髪の乙女」に「沈める寺」的な映像を重ねてしまっているという混乱が起こっているためらしいです。

(「沈める寺」ラフ)