宇宙人の長老にたずねられたら

私がある日、宇宙人に拉致(らち)されて、母船の中で船長である長老の宇宙人から、「あなたを惑星地球の、日本人のサンプルとして選んだ。日本人の代表として私たち宇宙人にすすめるべき、現代日本の代表的な音楽を10曲あげてみよ」と言われたなら、これは責任重大です。

でも、私はそんなとき、公平で平板な選曲などすることなく、私の好(この)みの曲を選曲して、宇宙人に提示してみようと思ってます。

まずは井上陽水さんの「少年時代」ははずせないでしょう。次に石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」、都はるみさんの「北の宿から」も必須(ひっす)ですね。

それからパフュームの「シークレットシークレット」、松任谷由実さんの「翳(かげ)りゆく部屋」とくると、それならサザンオールスターズや、古いところではザ・タイガーズも加えないとな…と思い、迷いが生じてしまいますね。

なにしろ「日本の代表的な曲」で、私はそれを宇宙に向けて発信する全責任を背負っているわけですからね。

山下達郎さんだっているし、服部良一先生作曲の「三味線ブギウギ」(歌は桧山うめ吉(きち)さんのが好きです)なんかも入れておきたいと思いだすと、もう選曲は不可能になってきます。

「日本の代表的な曲」でこれですからね。これが「地球の代表的な10曲」なんて言われたら、と考えると、気が遠くなってしまいます。

(高校生のころ描いた”空想のアンプ 2”です)

前世療法

米国の精神科医、ブライアン・L・ワイス博士は、フロリダの医療センターで、20代後半のうつ病患者の女性、キャサリンの治療に取り組みますが、その症状がいっこうに改善しないため、最後の手段として、退行催眠により過去を思い出させ、病気の原因となるできごとを見つけだす手法をこころみたところ、そのさなか彼女は思いもよらず4000年前の記憶を語り始めます。

博士はそれまで、前世や過去世といった非科学的とも思える事柄(ことがら)は、まったく関心がなかったことから、キャサリンの反応にとまどいますが、彼女が前世を思い出してからというもの、その症状は急速に回復し始めます。

過去世の記憶とはいっても、それは幻想か夢のようなものにちがいないと考えていた博士も、彼女の驚異的な回復をまのあたりにして考えを改めるようになり、ついには退行催眠により前世での心の傷を思い出すことで、さまざまな精神疾患を治療する「前世療法」をおこなうようになります。

そのいきさつや実際の治療例をまとめたものが「前世療法」(PHP研究所刊)です。

キャサリンは何度めかの退行催眠のとき、ワイス博士に向けられた霊的マスターからのメッセージを語りはじめ、それは幼くして亡くなった博士の息子のことから、その名前の由来(ゆらい)、博士が精神科医になった内なる動機など、他人が知るはずもないことばかりで、これを聴いた博士は、「わたしはうす暗い静かな診察室で、隠(かく)されていた秘密の真実が、耳をろうする滝のごとく、わたしの上にふり注いで~わたしは霊的な海を泳いでいるような思いがした」と書いています。

医学博士の体験として書かれたこの本は、宗教書とは別のインパクトがあり、私が深い印象を受けた本の一冊です。

重低音

高校生のころはオーディオに凝りました。

お金がなかったので、たいした機材は持ってなかったですが、高1の夏休みの前半に道路工事のアルバイトをやり、それで得たお金で、パイオニアの25センチウーハー(低音用スピーカー)と中高音用スピーカー、合板材を買い、夏休みの残り全部を使ってスピーカーボックスを作ったことがありました。

パネルの前面にダクトがあって、その容積によって重低音域が補強される「バスレフ型」というスピーカーボックスで、ちょっとした冷蔵庫くらいの大きさがありました。完成して最初に聴いた曲、レッド・ツェッぺリンの「胸いっぱいの愛を」には感激しました。

それまで聴いていた小さな密閉型スピーカーからは、こんなに腹の底から震えるような低音は聞こえていなかったので、この別次元の音の体験に私は圧倒されました。

高校生のときは試験前以外はほとんど勉強もせず、ロック音楽を聴き、深夜には取り憑(つ)かれたように絵を描くという、どうしょうもない生活を送っていました。

今、思いおこすとムチャクチャな学生ですが、当時、私はじつに幸せでした。

(高校生のころ描いた”空想のアンプ”です)

「保健体育ノート」という教科書のこと

イラストでむずかしいのは、なんといっても正確な人体描写です。マンガ的なタッチならまだしも、リアルなイラストでは少しでもデッサンが狂っていると、だれが見てもすぐにわかります。

大日本図書の「保健体育ノート」という教科書のイラストを描いたときは本当に大変でした。

「保健体育ノート」は中学生用の教科書で、1年生から3年生まで、その期間に習う運動競技のイラストを、コマ送りのように分解して描くというものでした。

ストレッチから始まり、マット運動、鉄棒、跳び箱、陸上競技、水泳、バスケットボール、ハンドボール、サッカー…と続いて、柔道、剣道、相撲、ダンスもありました。

それぞれのイラストは監修の先生がチェックして、歩幅や指のにぎり具合も細かく指示が入ってくるので、神経を使いました。

特に手の大きさには気を使いました。鉄棒の連続技などは、人物一点一点はそれほど大きくないので、気がつくと手を大きく描きすぎていて、体とのバランスがくずれていることがあるので、全身とのバランスをいつも確認するようにしていました。

(大日本図書「保健体育ノート 1年生」)

子猫のこと

以前、神奈川県川崎市のマンションに住んでいたころ、そこの地下駐車場に入るスロープ横のスペースに、子猫が2匹住みついていました。

1匹は茶色の縞(しま)で、もう1匹は黒猫でした。親からはぐれたのか、どうしたのか、2匹はまだほんの子どもだったので、私はキャットフードを買ってきて、1日1回エサをやることにしました。

人に見つかると面倒なので、エサやりは必ず深夜1時を過ぎてからにしましたが、決して子猫にはさわらず、一定の距離を取るようにしていました。私が2匹に近づき、さわったりしたら、この子猫たちは人間をおそれなくなる可能性があり、これからノラとして生きていくなかで、悪い人に出会うこともあるはずだから、2匹が必要以上に人間に馴(な)れないようにと考えてのことでした。

問題は私が用事で数日、家を空けるときですが、そんな場合、なるべく人に発見されないような奥まった場所にエサを山盛りにしておきました。

1年近くそうしていたある日、いつものように深夜にスロープ横に行くと、2匹がどこにもいないのです。

私は心配になり、あたりを見まわっていると、非常階段わきの壁のむこうから2匹がヒョッコリと顔を出し、私と目が合うと、すぐにどこかに行ってしまいました。

それ以来、もう2匹はそのマンションにあらわれることはなくなりました。

あのとき、壁のむこうから顔を出したのは、「自分たちはもう、ここから卒業するよ」という、私へのあいさつだったのかも知れません。きっと自分で街に出て、いろいろな方法でエサを見つける一人前の猫になるために、このマンションから旅立つ決心をしたのだろうと思います。

それから半年くらいして、私が駅からマンションへの道を歩いていると、むこうからあの2匹のうちの1匹、茶色の縞もようの猫が歩いてきました。前より少し大きくなっていて、大人の猫のような顔をしていましたが、私はそれがあの猫だとすぐにわかりました。

茶縞のほうも私に気づいたらしく、すれ違う瞬間、私のほうをチラッと見て「ニャア」と小さく鳴きました。私も目で合図して、「がんばって生きて行けよ」と、テレパシーを送っておきました。

(猫の授乳 水彩イラスト)

アンリ・ルソーの絵

私はアンリ・ルソーの絵が大好きです。

私が高校生だったころ、ルソーの絵の中で、木の葉が1枚ずつ克明に描かれているのに感動をおぼえ、私も葉っぱ1枚1枚を描いて森の絵を仕上げようと思い立ち、鉛筆画で描きました。

できあがった絵からは、ルソーのような素朴感はただよってきませんでしたが、なんだか妙に神秘的なかんじになって、これはこれでいいかんじかも、と私は思いました。

最初はF6号くらいの紙に描いてましたが、そのうちだんだんとサイズが大きくなっていき、最後にはB1(タテ72,8㎝×ヨコ103㎝)の紙いっぱいに描いてました。

こまかく葉っぱを描けば描くほど、私はなんだか狂おしいような気分になっていき、さらにどんどんこまかく描きこみ、さらに気分は狂おしくなっていく…という、一種の偏執狂的作業に没頭しました。

(高校生のころの鉛筆画です)

ゲーテ作「ミニヨン」

私は詩というものは、あまり読んだことがないので、まるでくわしくありません。

でも、そんな中でひとつ、ゲーテの詩集にある”ミニヨン”というのは、読むたびに、心臓のあたりがジーンとしてくるほど気に入ってます。

岩波文庫から出ていた”ゲーテ詩集”(四)にある、竹山道雄さん訳のものがすばらしいです。

「きみ知るや南の国」と始まり、「シトロンの花咲き、くらき茂(しげ)みに黄金(こがね)のオレンジは燃え」と格調高く、どこか彼方(かなた)感のある光に満ちた、それでいて少し憂愁を含(ふく)んだ詩文が本当にいいかんじです。

ドイツから南のほう、イタリアかどこかへのあこがれでしょう「ミルテはしずかにローレルはそびゆ。知るやかの国、かなたへ、かなたへ、おお恋人よ、君と行かまし」と詠われていて、濃く茂った緑の葉かげにオレンジが実ってるなんて、じつに絵になりそうで、ホームセンターでオレンジの苗を買ってきて、庭に植えてみようかとも思ったのですが、私の住んでるところは冬が寒すぎて、うまく育ちそうもないので、やっぱりやめておくことにしました。

(水彩画です)

インテリジェント・デザイン

お昼にコーヒーを飲みながらバナナを食べていて思ったことは、これはつくづく手に持って食べやすい形だなあ、ということです。

ミカンなんかもそうですよね。皮をむくと果実が小さい袋に小わけされていて、ひと口サイズになっているし、ブドウなんかも、つぶの大きさが、ひとつ食べたらもうひとつ食べたくなるくらいの、後をひく手頃(てごろ)な大きさだし、考えてみれば、果物はもっと自分勝手でもいいのに、いろいろと人間の都合(つごう)に合わせてくれているような気がしてなりません。

そう考えると、果物だけでなく、綿花(めんか)は花のあとにわざわざ綿(わた)をつけて、ジーンズやシャツの材料になってくれてるし、菜(な)の花はナタネ油ができて料理に使えるし、暑い地域にはお米が育ってオニギリやカレーが作れるし、寒い地域には麦(むぎ)が育ってパンが作れるし、まるでこれは人間のためにだれかがわざと仕組んだんじゃないか、と思っていたところ、最近では生命全体は「生命を育もうとする意図を持った知性ある何者かによってデザインされた」とする「インテリジェント・デザイン」論というのがあるそうです。

それによると、たとえば人間の目は水晶体、虹彩、角膜その他多くのパーツからできていて、そのひとつが欠けても正常に働かないのだし、進化論が説くように目が進化の結果としてできたのなら、その途中の時点で役に立たないパーツは自然淘汰(とうた)されるのだから、目は機能しないことになり、だから目は最初から完成品として出現したはずで、それには何か知的(インテリジェント)な存在によって生命がデザインされたと考えるほうが合理的だ、とういことらしいです。

昔の人はそれを神様と呼び、最近ではそのデザイナーのことを「サムシング・グレート」(おおいなる何か)と呼んだりするそうです。

(水彩画 習作です)

どこかで暴動が…、と秋山さんが言いました

秋山眞人さん(超能力者)が、新宿にあった事務所で月刊誌を出版していたころ、私はその手伝いをしていたことがあります。

ある日、事務所の部屋で秋山さんの目がうつろになり、「暴動が起きている、暴動が起きている」とつぶやき始めました。

私は「秋山さん、暴動ってなんのこと?」とたずねると、「日本じゃないどこかで、暴動のようなことが起こってる…人がたくさん走り回っている」と言うのです。

私はなんのことかわからず、そのときは「秋山さんはときどき変になることがあるな…」と思ったのを覚えてます。

その日、秋山さんが「暴動が…」と言っていた時刻に、中国の天安門広場で暴動が起こっていたのを私が知ったのは、その翌日だったか、正確な日時は忘れましたが、テレビのニュースででした。

(機材の不調のため引き続き画像なしです。すみません。)

秋山眞人さんを紹介したときのこと

ずいぶん以前ですが、徳間書店の編集者だった守屋さんに、超能力者の秋山眞人(まこと)さんを紹介するため、原宿で会うことになったときのことです。

私と秋山さんは千疋屋表参道店の前で守屋さんと落ち合うことにしていましたが、時間になっても守屋さんがやってきません。

そのころはまだケータイなんてないときで、「午後4時に千疋屋前」と決めて家を出たら最後、お互いに会うまでは、連絡の手段はありません。

「守屋さん、場所をカン違いしてるかな…」。私が不安になって秋山さんにそう言うと、秋山さんは私に「角さん、守屋さんの顔を頭に思い浮かべてみてください」と言うのです。

私は言われるままに目を閉じて、守屋さんの顔を思い浮かべました。秋山さんはしばらく私と向き合った状態で目を閉じていました。「はい、いいです。探してきます」と言って人ごみの中に消えて行ってしまいました。

4~5分くらいすると、ラフォーレ原宿のほうから秋山さんが守屋さんを連れてあらわれたのでビックリしていると、秋山さんは「角さんのイメージしたものをたよりに、それらしい波動を感じる方向に行ってみた」とのことでした。

そして、人ごみの中から、守屋さんらしい人物を見つけて声をかけた、ということでした。

もちろん、秋山さんと守屋さんは、その日が初対面でした。

(機材の不調のため、画像なしです。すみません)