川辺の黄色い花

川辺の道をウオーキングしていると、このころは鮮やかな黄色い花が一面に群生していて、美しいです。

年ごとに群生が広がっているような気がして、何という名前の花なのか気になったので、ネットで調べてみました。

「5月 野草 黄色い花」で検索すると、ありましたね。

「オオキンケイギク」という名だそうで、なんと「平成18年に外来生物法に基づく特定外来生物に指定され、栽培、譲渡、販売、輸出入が禁止されている」となってました。

強靭でよく生育するので、かつては工事のときの法面(のりめん)緑化に使われていたのが、定着すると在来種を駆逐するおそれがあるとして、そんな指定がされてしまった、ということのようです。

それにしても一時は便利ともてはやしといて、挙句(あげく)に栽培等禁止とはね。なんて仕打ちでしょうね。

私はきれいだから好きですね、この花。

花に罪はありませんからね。

栽培、譲渡、販売、輸出入が禁止されても、「応援」は禁止されてないようなので、私はこのオオキンケイギク、応援して、さらには鑑賞しますけどね。

ネコと音楽

まだ5月だというのに、日中は真夏のような暑さが続き、最近の日本は、もう亜熱帯みたいですね。

でも、朝はまだ暑くなくて過ごしやすい気温なので、仕事しながら、こんな季節にピッタリの曲ということで、スパイロジャイラを流していると、その音に刺激されたのか、外の庭の木陰で寝っころがっていたクロネコの黒ベエが、顔を上げてこちらをうかがってます。

曲の中のサックスの音が、メスネコの鳴き声にでも聞こえたんでしょうか。

ネコには音楽はどう聞こえてるんでしょうね?

自然にある音と同じに感じてるのか、あるいは多少なりとも情感やメロディーといったものを感じとることがあるのか…、ネコに聞いてみたいものです。

牛にモーツアルト聞かせると牛乳の出が良くなったなんて話しは聞いたことありますし、この前、ネット見てると、ドイツの下水処理場でモーツアルトの「魔笛」を流して、バイオマスを食べる微生物に聞かせたら、汚泥の量が大幅に減ったという記事を見ましたけどね。

ネコの場合はどうなんでしょうね。

ネコは特に実用的なことしてるわけじゃないので、その効果といっても、わかりにくいでしょうけどね。

(庭にいる黒ベエ)

” 聖アグネス祭の前夜 ”

処女の守護聖人、聖アグネスというのは、4世紀初頭、ローマ長官の息子との無理やりの結婚を拒(こば)み、1月21日に火あぶりの刑に処せられた13歳の少女、アグネスのこと。

その前夜、1月20日が「聖アグネス前夜祭」で、女性が祈りをささげて眠りにつくと、未来の夫を夢に見ることができるという伝承があるそうです。

イギリスの詩人、ジョン・キーツの代表作「聖アグネス祭の前夜」はその聖人の名を借りて書かれた叙情詩というわけで、19世紀、イギリスに出現した、保守的絵画への反発を示す画家集団ラファエル前派のひとり、W・H・ハントの描く同名の油彩画は、このキーツの詩の一場面を細密なタッチで描き上げた逸品です。

まあ、それはともかく、13歳の美少女にふられたことを根に持って、ローマ長官である父親の権威を借りて、少女を処刑へと追い込んだこの息子、なんという下劣きわまりない人間であることかと、私は憤懣やるかたないですね。

男はね、女にふられたらですよ、酒でも飲み狂って、ふて寝すりゃあいいんですよ。

そして、三、七、21日、身もだえて、それでその女とはおさらば、てなもんでしょう。その後は、彼女の人生の幸福を祈ってやらあ、てね、それが男の心意気ってもんですよ。

自分をふった女を逆怨(さかうらみ)して処刑しただなんて、害虫以下ですね、このバカ息子は。

井上尚弥勝利!

いやー、すごかったですね。ボクシングWBSS世界バンタム級セミファイナルで井上尚弥選手、2ラウンド1分19秒  TKO勝利とは…!

今回対戦のIBF世界王者、エマヌエル・ロドリゲスは歳も同じで、19戦無敗。井上選手よりアマチュア戦績、プロ戦績ともに上という強豪。「簡単な試合にはならない」と井上自身も予想していた通り、1ラウンドでは、両者それほど差はない感じがしていたのが、2ラウンドでは早くも井上選手が流れをつかみ、まず左フックでダウンを奪い、立ち上がってきたところに今度は強烈な左ボディーで2回目のダウン。かろうじて立ち上がるも、ロドリゲスは苦悶の表情、もうこれで決まってましたね。

さらに立ち上がりはしますが、ダメ押しのボディーで3回目のダウン。ここでレフェリーが止めて試合終了と、圧倒的な内容となりました。

私なんか小心者の上に心配性なので、試合の始まる前はなんだかドキドキして、テレビで見てるだけなのに、ひとりでナーバスになってましたけど、まあ、多少は苦戦はしても、なんとか勝利してくれるはず、と信じてはいたんですね。

でも、まさか、前回のファン・カルロス・パヤノ戦に続き、こんなマンガチックな勝利になるとは思ってもみませんでした。井上尚弥選手おめでとうございます。

いやあ、じつに力(りき)みすぎた観戦だったので、あしたはいろんなところが筋肉痛になりそうです。

(急遽投稿したので、画像はなにも思いつきませんでした)

言葉

地球上に言語がこんなにもたくさんあるのは、どうしてなんでしょうね。

ノーム・チョムスキーという言語学者は「約10万年前に言語機能(脳の構成要素)が、瞬間的に、完全に、もしくはほぼ完全な形で出現するような、進化の1度きりの突然変異が、霊長類の1個体に起こった」と主張したそうですが、一般的には、言語は「霊長類のコミュニケーションの認知的に制御された側面から発展してきた」と、なんだかわかりにくいですが、つまり、声やジェスチャーから徐々に発展したという考えが主流なようですけど、いずれにしても言語の起源というのは、科学にとって難問中の難問であることは間違いないようです。

新約聖書のヨハネによる福音書には、最初のところに「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。~すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、ひとつとしてこれによらないものはなかった」と書かれてますけどね。

そして旧約聖書には、天に近づこうとして人間がバベルの塔を作ったために、神は怒って「さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱(みだ)し、互いに言葉が通じないようにしよう」と言ったと書かれていて、「主(しゅ)はそこから彼らを全地のおもてに散らされた」となってます。

古代神道一神宮の神伝記第二巻には「おもうことことばになった ことばふきわけられてたねとなった ことばをたねとして よのなかへふせておいた ことばみずたまとなりてひろがった」とあります。

今、地球上の言語の壁は、コンピュータの翻訳機能の発展によって超えられようとしてますね。

人類が言語の違いを超越したとき、全地のおもてに散らされた人類は、ふたたび融和による発展、つまり「民は一つで、みな同じ言葉である。~彼らがしようとする事は、もはや何事(なにごと)もとどめ得(え)ないであろう」(創世記11章)というようなことになるんでしょうかね?

庭の草取り

先日、庭の草取りをやりました。

暖かくなってくると、庭はみるみる草ボーボーの状態になってきて、油断してると全体が荒地かジャングルのようになってしまうので大変です。

草を取るというのは黙々とした孤独な作業ですけど、そんなときよくあるのが、最近聞いた曲のメロディーがくり返し頭の中で反復するという現象です。

今回、反復したのはアメリカ民謡の” おお、スザンナ ”です。

これは数日前、ジェームス・テイラーのCDを久しぶりに聴いていて、その中にあった曲ですが、私はそれが特に好きというわけではないのに、その日、草を取っている最中に、いきなりメロディーが頭の中で反復し始めました。

それは一般的なアップテンポのものでなく、ジェームス・テイラーはギター1本で弾き語りして歌っていて、そのメロディーが、ぬぐってもぬぐっても執拗(しつよう)に、私の頭の中にくり返されました。

Oh  Susanna,  do  not  cry  for  me.                      I  come  from  Alabama,  Wid  my  Banjo  on  my  Knee.

(おおスザンナ、泣くんじゃない。オレはバンジョーを膝にかかえてアラバマからやって来た)と、延々とです。どうしたもんでしょうね。

そして、庭はけっこうさっぱりとなりました。

(ジェームス・テイラー CD)

天下の大事は、必ず細より作(お)こる

今ころになると私は、よく家の軒下を観察して、ハチが出入りしてないか注意してます。

この暖かさで、屋外にはいろんな虫が活発に飛びまわってますが、特に注意が必要なのがスズメバチです。

私がまだ東京に住んでたころ、お盆に帰省すると軒下に大量のスズメバチが出入りしていて大変だったことがありますが、おそらく屋根の裏に巨大な巣ができていたんだろうと思います。

ああなると、専門の駆除業者に頼むしかなくて、本当に大事(おおごと)でした。

老子も「天下の難事は、必ず易きより作(お)こり、天下の大事は必ず細より作(お)こる」と言っているように、その始まりの小さいうち、つまり、この場合は、スズメバチが1匹飛んで軒下に入ったという前兆を見逃さないで、その時点で的確に対処するということが大事です。

通りすがりのスズメバチが、たまたま軒下をかすめた、なんてのは別にいいんですが、巣作りの下見に軒下に入っていったのを見つけたら、住友化学のスズメバチ用スプレー、その名も「パワフルトリガーで速効一撃 スズメバチ」を吹きかけます。これは「巣作り防止」の効果もあって、なかなかのスグレモノです。

このように「細(さい)」に気を配って、対処することで、「天下の大事」に至らずにすむという、そんな老子さんのお教えを実践しているという、今日この頃です。

ビンテージ・ソファー

仕事部屋にある長ソファーは、4年くらい前に買ったものです。

革製のソファーが欲しいな~と思っていて、ネットで「本革 アンティーク家具 ソファー」と検索してて見つけました。

色といい、形といい、「これ欲しい~!」と思いましたが、けっこうな値段だったので、少々迷いました。

でも、「これを逃すと、こんなものはもう2度と出ないだろうな」ということで、思い切って買いました。

1950年代か、もう少し前のアメリカ製なので、正確にはアンティークではなく、ビンテージ家具ということになるんでしょうが、クッションも最近のようなウレタンではなくて鉄バネが入ってますけど、経年変化でヘタることもなく、座り心地もすごくいいです。

最近は忙しくて、ほったらかしだったですけど、先日の天気のいい日に久々に手入れしました。

蜜蝋(みつろう)入りのワックスを表面に薄く伸ばして、少しおいてから、布でから拭きして仕上げました。

いい輝きです。

遠いアメリカで作られたソファーが、今こうして岡山の田舎の、和風の家の、畳の上にあるというのは、眺めていると、なんだかふしぎな気がしてきます。

置いてある本

本というのは、置いておくと良い具合に熟成するということがあるようです。

本屋で偶然見かけて、タイトルに惹かれて買ったり、パラパラとめくっていて、たまたま目についた1行が気に入って、内容もよくわからないまま買ってしまったりと、そういうものが部屋の本棚にあふれ、おさまりきらずに床の上に積み重なったりして、いつか読もうと思っていて忘れてしまい、それらは知らぬ間に部屋の風景の一部になってしまっている、なんてことがありますが、そういう本は、ほどよく熟成して、ちょうど良い時期に良い内容にと醸成され、読みごろをむかえているということがあります。

まあ、本の内容が変化するわけはないので、熟成したのは本当はこちらの頭の中なんでしょうけど、そんな本を久々(ひさびさ)に手に取って読み始めてみると、じつに今の気分にピッタリの風合いを持った読み物であった、なんてことがママあります。

今、読んでいる「ラファエル前派の世界」(齊藤貴子著 東京書籍刊)なんてのもそんな1冊です。

2005年刊なので、もう14年も前のものですが、じつにいい具合に熟成してましたね。

” 令和 ”

「あなたが寝室で明かりをつけたいと思い、ベッドサイドのランプのスイッチを押すと部屋が明るくなる。あなたは ”スイッチを押したから明るくなった ”と説明するかもしれない。だが言うまでもなく、明かりがつくまでにはもっといろいろなことが起こっている。物質世界で経験するさまざまなことも、それとまったく同じだ」と、エイブラハムは語っています。

この世の目に見える現実の奥には、もっと多くの複雑な事象が隠されている、ということなんでしょうね。

ランプとスイッチの例で言うなら、その奥には電気の発見から、活用の歴史、水力や原子力での発電のメカニズムから、交流による送電システム、これを明かりにするランプの仕組みまで、さまざまなことがらが隠されている、ということになりますね。

目に見えることの奥にひそんでいる、見えない広大な領域を「霊」と呼んでもいいのでは、と私は思いますけどね。

新元号は「令和」てことですが、この「令」は「霊」に通じ、霊との融和、和合の時代になることの暗喩が、その言霊(ことだま)に込められているのかも、なんてことを私は感じますね。

今まで隠されていたものとの和合、霊的なものとの和解なんてことですね。

(「引き寄せの法則 エイブラハムとの対話」ソフトバンクCre刊)