ひさしぶりにカフカの小説を読んでみようかなと思い立ち、” 審判 ”に目を通してみたんですけど、やはり気をつけないとカフカは危険だなと再認識しました。
この小説はその始まりから、銀行員ヨーゼフ・Kの日常が展開していきますが、その細部の緻密さに気を取られていると、全体を支配する非現実的な奇妙さから気をそらされて、そこに忍びこんでいる不条理と異常な現実を、なしくずし的に受け入れてしまい、なんだか知らない間に迷宮にも似たカフカの幻想世界にとらわれることになってしまいます。
だから私は現在、自分のどこかがダメになってしまうような不安感にさいなまれ、全10章からなるこの小説の、第3章の中盤で読むのをやめたままにしてしまっています。
カフカを読むといつもそうですが、疲労感と抑鬱(よくうつ)の発作に見舞われそうでコワくなります。
ただ、この感覚はどこかクセになるようなところがあって、だから私は時々、この小説に懲りもせず手を出してしまいます。
カフカは40歳で亡くなってますが、その死に際して、友人のマックス・ブロートに自分の小説をすべて焼却してくれるように依頼し、しかしブロートはカフカの死後、その遺志に反してそれを出版してしまい、そのおかげで我々はカフカの奇跡のような小説群を今日(こんにち)目にすることができるというわけで…。
だからこれらの小説は、本当はこの世に存在してはいけないものだったのかも知れません。
「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」。” 審判 ”の後半、教誨師は教会の伽藍の中でヨーゼフ・Kにそう語りますが、まったくこの小説の世界は、カフカにとって重苦しく奇妙な必然のものとして、実世界よりもさらに身近かでリアルな実在の世界であったのかもしれません。