カフカ ” 審判 ”

ひさしぶりにカフカの小説を読んでみようかなと思い立ち、” 審判 ”に目を通してみたんですけど、やはり気をつけないとカフカは危険だなと再認識しました。

この小説はその始まりから、銀行員ヨーゼフ・Kの日常が展開していきますが、その細部の緻密さに気を取られていると、全体を支配する非現実的な奇妙さから気をそらされて、そこに忍びこんでいる不条理と異常な現実を、なしくずし的に受け入れてしまい、なんだか知らない間に迷宮にも似たカフカの幻想世界にとらわれることになってしまいます。

だから私は現在、自分のどこかがダメになってしまうような不安感にさいなまれ、全10章からなるこの小説の、第3章の中盤で読むのをやめたままにしてしまっています。

カフカを読むといつもそうですが、疲労感と抑鬱(よくうつ)の発作に見舞われそうでコワくなります。

ただ、この感覚はどこかクセになるようなところがあって、だから私は時々、この小説に懲りもせず手を出してしまいます。

カフカは40歳で亡くなってますが、その死に際して、友人のマックス・ブロートに自分の小説をすべて焼却してくれるように依頼し、しかしブロートはカフカの死後、その遺志に反してそれを出版してしまい、そのおかげで我々はカフカの奇跡のような小説群を今日(こんにち)目にすることができるというわけで…。

だからこれらの小説は、本当はこの世に存在してはいけないものだったのかも知れません。

「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」。” 審判 ”の後半、教誨師は教会の伽藍の中でヨーゼフ・Kにそう語りますが、まったくこの小説の世界は、カフカにとって重苦しく奇妙な必然のものとして、実世界よりもさらに身近かでリアルな実在の世界であったのかもしれません。

ジャガイモが育ってます

今年の春ころだったと思いますけど、庭の片隅(かたすみ)にジャガイモを植えたんですね。

ホームセンターでタネイモを買ってきて、半分に切って、20~30個くらい植えたと思います。。しばらくすると芽が出て、葉が出て、「これはいい調子だな~」なんて思っていて、「鹿に食われるといけない」ということで、鳥獣防御のためのネットを買ってきて、芽の上にかぶせておいたのですが、何カ所か甘いところがあって、ある日、見ると、そこから鹿が頭を突っ込んだらしく、せっかく育ってたジャガイモの葉が食い荒らされてました。

アッタマ来ましたね~!まだ葉は少し残っていたのですが、なんだかやる気がなくなりましてね、それ以来放ったらかしてたんです。

しばらくすると、そこらあたりは雑草が生い茂って、ジャガイモはその勢いに押されてか、枯れてしまってました。

先日、ふと思いつき、雑草を取り払ってみると、なんとその地面から、新しくジャガイモの芽が出てたんですね。

全滅したと思ってたジャガイモは、その土の下にイモができていて、それから新しい芽が出てきたということなんでしょうね。

ほんの4~5株ですけど、今度は鹿にやられないように入念にネットをかけましたけど、無事、ジャガイモ収穫となりますかどうか…。

”アラレ ”

うちに朝晩食事しに来る半ノラの黒ネコ、” 黒ベエ”の皿が置いてあるあたりから、カチャカチャと音がしてるな?と思って見てみると、隣のうちのメスネコが皿に残ったキャットフードを食べて、それでも足りないらしく、しきりに皿をなめてました。

シャムネコ系の雑種で、黒ベエより小柄(こがら)で、鈴つきの赤い首輪をしています。

うちの隣は自動車修理業で、ここは家族全員がネコ好き、飼ってるネコは全部で12匹、そういえば以前、子ネコが生まれたと言っていたので、今はもう少し増えて14~15匹くらいになっているかも…、という大所帯です。

このあたりは田舎なので、ネコたちは家と外の出入りを自由にさせてもらっていて、そのため、うちの庭にも何匹かがよくやって来ます。

皿をなめていたシャム系メスネコは、黒ベエの皿によくエサが残っているのを最近発見して、やって来始めたようです。

うちではそのネコを暫定的に” シャム子 ”と呼ぶことにしましたが、昨日、隣の人にたずねたところ、正式な名前は” アラレ ”だということでした。

(アラレさん)

” お料理行進曲 ”

テレビアニメのテーマ曲で傑作といえば ” キテレツ大百科 ”のオープニングで流れる ” お料理行進曲 ”ですね。

もちろ ” 鉄腕アトム ” や、” エイトマン ”など、アニメの名曲はそれこそキラ星のごとく存在しますが、 ” お料理行進曲 ”はそれらの思い出の名曲と比べても、ユニークさとドラマチックな展開、品格あるメロディーで、決してひけをとりませんね。

「いざ進めキッチン めざすはジャガイモ」で始まり、要するにコロッケの作り方を歌詞にしてるワケですけど、「タマネギ目にしみても 涙こらえて」いろいろ混ぜて炒めて、コロッケができ上り、こんがりと揚(あ)がったところで、曲調も盛り上がりのピークをむかえ、そこで絶妙なコーラス、「キャベツはどうした?」と高らかな問いかけが歌い上げられるという心にくい構成。

これがまるでエルガーの ” 威風堂々 ”にも匹敵する格調高いメロディーの行進曲としてオープニングを飾るというスグレモノです。

この ” キテレツ大百科 ”のエンディングに流れる ”はじめてのチュウ”は、これまた名曲で、実にすばらしく、いろんな人たちがカバーして歌っていて、日本のアニメはそのテーマ曲も世界に誇ることができる、優れたものが多いです。

             (コロ助 謹写)

ムシ歯チャンピオン

子どものころ、ムシ歯チャンピオンでしたね。

いつもどこかしらムシ歯があって、ジクジク、ズキズキ痛んでました。グリコのキャラメルとか、チョコレートとか、甘いお菓子は大好きでしたけど、もともと歯の質自体が弱かったんでしょうね。

歯の痛みはまるで人間存在そのものにかかわる痛みのようだ、と何かの本に書いてあったような気がしますが、本当にその痛みは自己自身の根底をゆさぶるような、キルケゴール的に言えば、まるで人間の「内なる永遠者を食いつくす」ような、そんな大変な痛みなんじゃないかと思いますけど、子供のころそんなのにしょっちゅうさいなまれていりゃあ、そりゃあ人間、多少はひねくれて育つというものですよ。

そういうワケで、大人になった私はその精神にいろいろ暗部をかかえてますが、あのムシ歯のことを考えれば、それでもまだよく育ったほうだと思いますよ。

今でも歯はガタガタですが、なんとかダマシダマシやってます。

早く遺伝子研究が進歩して、特定の遺伝子にピッとスイッチを入れると、新しい歯が生えてくる、という時代になってほしいもんですよ。京都大学の山中教授には、さらに研究がんばってほしいです。

(昔、グリコのキャラメルに入っていたオマケ)

 

山のむこう

近くの山でカラスが鳴いています。子どものころ、ボーと山を見ながら、あの山のむこうはまた山で、その山のむこうのむこうの、ずーとむこうには知らない町があって、そこは今、自分のいるこの世界とは少し違っていて、どんなふうに違うかというと、それはわからないけど、なにかが変で、ふしぎで、奇妙で、この世離れした場所で…、なんて思って、密(ひそ)かにワクワクしてましたね。

それは、萩原朔太郎が書くところの” 猫町 ”のようなところ、つまり、「ふと知らない横丁を通り…」、「すっかり道をまちがえ」たために迷いこんだ奇妙な町、「…ある賑(にぎ)やかな往来に出た。それはまったく私の知らないどこかの美しい町」で、「…いたるところに日影が深く…」、「中庭のある奥の方から、閑雅(かんが)な音楽の音(ね)が聴こえてくる」ようなふしぎな町、そういう世界がどこかにあるに違いない、そんな愚(ぐ)にもつかないことを、よくボンヤリ想像してましたね。

だから、私はぜんぜんしっかり者の子どもではなく、そうかといって、人が驚くような天然のふしぎちゃんでもなくて、言ってみれば、表面的には真面目を装(よそお)い、ごく事務的な態度で生きていながら、内面はとりとめのない妄想が跋扈(ばっこ)するというような二面性を持った、なんだかつかみどころのない子どもだったと思います。

ボーディーダルマ

「ダルマさんが転んだ」でおなじみ、今ではだれでも知ってる存在のダルマ大師、つまりインドから中国に、仏陀(ぶっだ)の真髄を伝えたボーディーダルマは、途轍(とてつ)もない意識の高みに至った、仏陀以来最大の神性の顕現ということのようです。

和尚(おしょう)ラジニーシの講話集の中にある ”ボーディーダルマ ”(めるくまーる刊)は、ダルマ大師の語りを弟子が書き残したとされる ” 二入四行論  ”について語られた話しです。

中国に到着したダルマを、時の皇帝、武帝が迎えて、「ダルマ大師よ、私は多くの徳を積み、何千もの寺院と僧院を建立しましたが、それによりどのような果報を受けるでしょうか?」とたずねると、ダルマは、「果報などあるはずがない。あなたは地獄の底まで落ちることを覚悟しなさい」と答え、うろたえる武帝に対し、「あなたはまだ内なる声を聴いていない。聴いていたなら、そんな愚かな質問はしなかっただろう」と告げ、明日未明、護衛なしで一人でダルマのいる山寺に来るように言い残し、武帝の前から立ち去ります。

ためらい迷ったあげく、山寺に到着した武帝に、ダルマはそこに座り、目を閉じて自分の内側に入って、自身の心がどこにあるか探すように言い…、というプロローグに始まり、人の心、神性、エンライトメント(覚醒)について解きあかして行く、という内容です。

ラジニーシの講話はすべて、それが仏教についてのものであろうが、キリスト教、ジャイナ教、道教、イスラムスーフィズムや、禅、ヘラクレイトス、ピタゴラスであろうがどんなものでも、宗教や信仰に対する挑戦のように思える内容ですが、それには自らの体験に照らした意識への洞察がともなっていて、この上もなく神聖な魔力に満ちています。

私は若いころその講話に接して以来、いまだ見ぬ光明と、いわゆる宗教性との板ばさみになったまま、ただただ歳をとってしまいました。

私はあの武帝のように自らの功徳(くどく)に重きをおき、道にはげむこともありますが、同時に和尚ラジニーシの説く「無心」、「エンライトメント」にもあこがれをつのらせたままという、どっちつかずの宙(ちゅう)ぶらりんの状態です。

まあ、私にとって光明とは、いまだ未知の彼方にある絵空ごとのようなものということです。

ナチュラル・ハイ

今はもう酒は飲まなくなりましたが、昔はほんとにムチャクチャ飲んでましたね。

飲み始めると、中途半端でやめると悲しくなるので、どんどん飲んでしまうという、破滅型といいますか、ダメな飲み方でした。

アルコールの種類なんて、それこそなんでもよかったです。酔いがまわって気分が天国のように解放されてね、ガハハハーッ的な楽天的な心もちになるのが楽しくてね、ビールに始まって、焼酎、ウイスキー、日本酒、ワイン、ウオッカ、紹興酒…アルコールなら種類は問いませんでした。

じゃあ、なんで飲むのやめてしまったか、というとですね、「酒の先にはなにもない」ということに気づいたからですね。

飲んでいるとですね、壮大な計画や、宇宙的真理や、究極の美や、おとぎ話しのような恋愛や、意義深い連帯感や、神秘な出会いや、解放された魂や…、その他なんでもがそこにありそうに思えるんですけど、実はそこには本当はなんにもないんですね。

そして頭痛と倦怠感と、体のだるさと、反省の思いと、空虚な喪失感が残るだけで、実のあるものは金輪際(こんりんざい)なにもない、ということにこの歳になってやっと得心がいったということです。

でもまあ、私の場合はそうなんですけど、他の人はまた、それぞれ違っていると思うので、人が飲むのをとやかく言う気はなくて、だから飲み会の席にはちゃんと顔出します。

そんなとき飲むのはノンアルコールビールかコーラなんかですけど、私はそれ飲んでてもハイになって楽しめますね。

ナチュラル・ハイというやつですね。

(1982年ころの絵 ボールペン+水彩 未完成)

課題大国日本

日本は「課題大国」だと、池上彰さんがテレビで言ってました。

なるほどね。国の借金は1000兆円以上あって、今でも金利がついて、どんどん膨らんでますし、超高齢化社会という、世界の歴史上かつてなかった危機に直面してますし、それに伴って年金問題も深刻らしいですからね。

日経新聞によりますと、「2050年には日米英中インドなど主要8カ国で、計4京5000兆円の年金資金が不足する」なんて書いてあって、「京」は「兆」のもうひとつ上の位(くらい)ですからね。

それが具体的な数字として上がってきてるの見ると、なんだかそらおそろしい感じがしますよね。

で、まあ日本はそんな危機や課題といったものに、世界に先がけて直面する国ということで、いやが上にも世界の注目は集まっているようです。「日本はきり抜けられるのか? きり抜けられるとしたら、一体どんな方法で?」というワケですね。

私が思うに、もうこうなっては、現行の制度や体制の領域を超えて、日本は量子的飛躍を成しとげないと、どうしようもないんじゃないかと…。

まあ、私ごときがどうこう言ってもしょうがないんですけど、こんなご時世、「夜明け前の闇が一番暗いのだ」の言葉を信じて、やがて夜は明けるだろうということで、「今夜は一杯飲まねーと、やってられねーな」なんて、板ワサつまみに、ノンアルコールビールをあおっているという、まあ、そんな秋の夜長です。

 

個性

どうせすぐ寒くなるんですよね。

あと1か月ちょっとすれば、「寒い~!」だの、「池に氷がはった!」だの言ってると思いますよ。

季節がこのように変化する国に住んでいるということは、「ものごとは移り変わる」ということに直面するワケで、それはつまり、その中にあって変わらないものは何か?なんてのを知る機会になるんじゃないか、と考えたりします。

季節を人間の人生にたとえるなら、四季のように人も、幼年、青年、壮年、老年と移り変わりますけど、その人生の中で変わらないものは、私なんかの場合、つまり「神経質なのに脳天気な自己自身」なんてことになるんでしょうかね。

個性は変わらないですからね。個性は魂の傾向なんでしょうか?

そうなると、もっとありますね。「行動する気はあるのに、出不精(でぶしょう)」とか、「ふしぎ体験はほとんどないのに、ふしぎ好き」とか、「寛容そうなのに、すぐ頭にくる」とか…。

さらに言えば、もっと不道徳なのだっていっぱいありますけどね。さすがにそれはちょっと書けませんね。

(食後の黒ベエ)