マンガっぽいタッチのイラストも描きました

かなり以前(1991年)、宝島社から出版された「道具としての英語 暗記しないで使える英熟語」という本のイラストは、リアルタッチとはまったく別のマンガっぽいタッチで描きました。

イラストの仕事をやっていくうちに、本の雰囲気(ふんいき)に合わせたタッチでイラストを描くようになったのですが、編集のかたに言われたというより、やっているうちに自然とそうなったかんじです。

英語の本ということで、私が昔テレビで見ていた米国の子ども向け教育番組「セサミ・ストリート」の中に、ときどき出てくるアニメのイメージで描いてみたいと思い、そんな気分で描きました。

「セサミ・ストリート」には、当時の日本のアニメからは感じられない、ちょっと奇妙な雰囲気のものがあり、それがオシャレで米国っぽくて、いいな~といつも感じていたので、私はそのイメージに近いイラストにしようと思って絵を描きました。

「このイラストは気持ち悪いからダメ」、そう編集の人に言われないかと、少しビクビクでしたが、かえって好評だった記憶があります。

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(「道具としての英語~」より)

時間の止まった絵

まるで時間が止まり、画面全体が永遠の中にとどまったままでいるかのような絵画があります。

ジョルジュ・スーラの「グランド・ジャット島の日曜日」や、アンリ・ルソーの「フットボールをする人びと」、ジョルジュ・デ・キリコの「街の憂愁と神秘」などがそうで、その絵の中では本当に時間が停止している気がします。

絵は音楽と違い、それ自体、もともと時間の流れの中に存在するものではないですが、それらの絵が、あえて時間の停止感を強く感じさせるというのが奇妙で、神秘的だと、私には思えます。

ルソーの「フットボールをする人びと」などは、古風なスポーツウエアーに身をつつんだカイゼルひげの紳士たちが、秋の公園の広場でフットボールをしているというものですが、紳士たちは動いている様子(ようす)なのにもかかわらず、その画面は、どこか永遠に時間を止めた観があるからふしぎです。

キリコの「街の憂愁と神秘」もそうです。画面の中には、イタリアの午後の広場を、輪まわしをする少女が駆けぬけて行くのですが、日射しに照らされた広場と、そこに影を落とす建物のシルエットが、まるで時間の停止した白日夢のように見る者の意識に迫ってきます。

img659(「裏庭の見える部屋」油絵)

 

「不思議の国のトムキンス」

私が高校生のころ読んだ本に「不思議の国のトムキンス」というのがありました。ロシア生まれの物理学者、ジョージ・ガモフが書いた現代物理学の入門書ですが、ちょっと変わった本でした。

銀行のしがない事務員であるトムキンス氏が、ある日、大学の講堂でおこなわれた現代物理学の講演に出かけます。講演は白髪の教授による難解な内容で、黒板にはおそろしげな数式がならんで、トムキンス氏にはなんのことやらさっぱりわからないという、さんざんな結果で、彼は失望のうちに家に帰りベッドに入り眠ります。

ふと目を覚ますと、トムキンス氏は空中に浮いた巨大な岩の上にいて、さっき講演をしていた物理学教授もそこにいて、これから起ころうとしている空間の膨張(ぼうちょう)についての説明をトムキンス氏に話し始めるのです。

それは講演で聞いた内容「この空間は弯曲(わんきょく)し、それ自身において閉じていて、しかも膨張(ぼうちょう)している」ということが実際に起こっているという、宇宙の縮図のような夢の中の空間だったというわけです。

このようにしてトムキンス氏は、夜ごと夢の中で、その当時の最先端の現代物理学を、白髪の教授から教えられ体験するという話しで、そのところどころに、すごく味のあるイラストがそえられていて、私はすぐにこの本が大好きになりました。

算数が苦手で、高校の物理や化学の成績もまるでダメだった私が、唯一(ゆいいつ)夢中になって読みふけった現代物理学の入門書です。

img630(トムキンス氏 模写)

アシュタバクラ

私が小学校1~2年生のころだったと思いますが、学校に行く道を同級生や4年生、5年生のお兄ちゃんたちと集団で歩いていたとき、ふと「自分は子供として、みんなとふざけあっているのは、なんか不自然な気がするな」と感じたことがあります。

集団登校のグループの中で、ワイワイガヤガヤやっているのが、なんだか自分の本当の姿じゃないという妙な気分でした。それは子供のころときどき感じる気分で、自分は本当はおじいさんで、子供として浮き足立った話しの仲間に加わるんじゃなく、もっとどこか別の場所で静かに過ごすのが本当だ、と思ったりする、ヘンな子供でした。

でも今、もう若くない年齢になってみると、こんどは自分が歳相応の老成(ろうせい)した存在ではなくて、20歳そこそこの若者的な存在であるようなかんじがしています。

インドのマスター、バグワン・シュリ・ラジニーシの講話集の中にアシュタバクラという聖者の話がでてきます。それによると、王様であるジャナクがあるとき、アシュタバクラに「人はどうしたら英知に至るのか、魂の解放はどうしたら起きるのか?」とたずねたのに対し、アシュタバクラはまず、”あなたの存在は人生の四住期(幼年・青年・壮年・老年)のどれでもありません”と語ります。私はそれを読んで「たしかに、そんな気もするなあ」と思うのですが、それに続く言葉、”あなたは何にも属さないし、形もありません。あなたは全宇宙の観照者です”というのを読むと、これはもう、あまりに突きぬけすぎてしまっているかんじがして、目まいすら覚えますが、「でも、本当はそうかも」と思うところも少しあります。

アシュタバクラは最後に、”だから、そのことを知って幸せでありなさい…あなたは広大無辺であり、常に解放されています”と語ります。これを聞いた王ジャナクは光明(こうみょう)に至ったそうですが、アシュタバクラといい、王様といい、ただ者じゃないですよね。古代インドにはすごい人たちがいたものです。

img641(バグワン・シュリ・ラジニーシ 水墨画です)

「へんな立体」

誠文堂新光社から出版された「へんな立体」という書籍は、オランダの版画家エッシャーが描いたような、ふしぎな立体の作り方を、東京大学の工学博士、杉原厚吉先生が解説した本ですが、私はそのイラストを担当させていただきました。

本郷の東京大学内にある研究室に、編集の人といっしょにお邪魔して、打ち合わせをしましたが、まさか私が東大の研究室の中に入ることなんて、一生ないと思っていましたので、なんともへんな気分でした。

現実にはありえない立体を作るというのは、ちょっとしたトリックがあるのですが、本にある図面にしたがって作っていくと、それは本当に奇妙な「へんな立体」になるのです。

このイメージに合わせて、鉛筆を使って描き込んだイラストは、どれも実際にはありえないふしぎなものばかりで、私はそこに「不思議の国のアリス」的なキャラクターを登場させて、全体を少々おとぎ話し風の雰囲気に仕立ててみました。

(「すごくへんな立体」より)img629

トニオ・クレーゲル

私が10代~20代にかけて陶酔していた作家がトーマス・マンです。

トーマス・マンは北ドイツ出身で、ノーベル文学賞も受賞した作家です。代表作は「魔の山」、「ブッデンブローグ家の人々」、「ファウスト博士」などの長編ですが、トーマス・マンの真髄(しんずい)は、なんといっても中編小説「トニオ・クレーゲル」です。

「トニオ・クレーゲル」は、若きマン自身の自叙伝的小説で、芸術家と市井(しせい)人とを対比させ、市井の愚鈍さを軽蔑しながらも、その朗(ほが)らかな快活さにひそかにあこがれる若き芸術家トニオの矜持(きょうじ)と苦悩を、音楽的とも言える文体と手法で、みごとに綴(つづ)ってみせた、まれにみる傑作です。

私は若いころ、このトニオ・クレーゲルのイメージを、なぜかシュールレアリスムの画家、サルバドール・ダリの若いころの写真に投影してしまい、そのダリの写真を下地にして、トニオ・クレーゲルが北ドイツの街の私設図書館(じつは没落して売られたトニオ自身の生家)の窓辺で、本を読んでいる姿にして、鉛筆画で描きました。

(鉛筆で描いたトニオ・クレーゲル)img621

福音館書店「母の友」

福音館書店で初めてイラストを描かせてもらったのは、50年以上続く月刊誌「母の友」だったと思います。「辰巳芳子の料理講座」という連載企画で、料理の素材や作りかたの手順を鉛筆画で描きました。

担当の編集のかたは熱心で、イラストを描くために、本枯れけずり節(かつお節)や昆布、干しいたけ、などの現物をそろえて送ってくださいました。

イラストを描くとき、今はパソコンで検索すれば、参考になる画像は簡単に見つけることができますが、パソコンがないころは大変でした。

雑誌のちょっとしたカットでも、たとえば「東京タワーの見える風景」なんてたのまれると、「東京タワーの写真、どこかになかったかな?」と探すことになります。締め切りまでにあまり時間のない急な仕事の場合など、本当に焦りました。

私はそんなときのために、雑誌や新聞、本からコピーしたものなど、資料になりそうな写真を集めたファイルをいっぱい作っていて、「風景 日本の名所」、「外国 観光名所」、「自然 四季」、「服装・髪形 平安~江戸」、「民族衣装」、「スポーツ各種」、「料理している人(一般・プロ)」、「冠婚葬祭 行事」、「女の子 ファッション」、「老人・介護」などなど…。新聞のチラシなんか見ても、「この写真は資料として参考になるかも」と思うと、切り抜いてとっておいたりしました。そんなストックが未分類のまま、紙袋にどんどんたまっていって、締切りで大変なときなんかにかぎって、急に思い立ち、ファイルに整理し始めたりしてました。

そうして作ったファイルは、今ではあまり必要でなくなってしまいましたが、捨てられなくてとってあります。

img619(「母の友」 辰巳芳子の料理講座)

 

クラシック音楽のこと

私は20歳前のころ京都に住んでいて、その当時、京都市美術館近くにあったクラシック喫茶「シンフォニー」という店によく通っていました。

そこに通うきっかけとなったのは、あるとき私の住んでいた3帖のアパートで、ラジオから流れてきた曲を聴いたことが始まりでした。

それはピアノソロで、私はそれまで聴いたことのない美しくもふしぎなメロディーに圧倒されてしまい、夢中でその曲に耳をかたむけました。私はそのころ、もっぱら洋楽のロック音楽だけを聴いていましたが、その曲はロックではないようで、でもきっと新進気鋭の天才ミュージシャンによるピアノソロであると思いました。

「キース・エマーソンでもなく、リック・ウェイクマンでもない、この曲を作ったミュージシャンは一体だれだろう…?」と興奮をおさえられず、ワクワクしていると曲が終わり、アナウンサーが作曲者と曲名を告げました。

「ベートーベン作曲 ピアノソナタ第23番”熱情”でした」と。私は仰天(ぎょうてん)してしまい、私の意識の中にあった”ロック音楽のみを崇拝する”という宮殿が、ガラガラと音をたててくずれて行くのを感じました。

その日から、私のクラシック音楽狂いが始まりました。喫茶「シンフォニー」が、クラシック音楽専門の店だということは、以前にその前を通りかかったとき気づいていたので、私はすぐにそこの常連となり、週に1~2回のペースで通うようになりました。

ベートーベン、バッハ、シューベルト、モーツアルト…私が子供のころ、小学校の音楽室に飾ってあった、ヘンな白髪のおじさんや、長髪にフロックコートの男たちの肖像を、「古くさくて、何の魅力もない絵」と思っていましたが、今やその人たちは私にとって、尊敬すべき真に偉大な音楽家であり、芸術家であったと気づかされました。

中学生のころ、教科書にあったバッハの肖像画に鼻ヒゲやメガネを書き加えてラクガキしたのは、本当に申し訳なかったと、今となっては、つくづく反省してます。

(そのころの私です)img601

画家・詩人・幻視者 ウィリアム・ブレイク

ウイリアム・ブレイクは好きな画家の一人です。私は音楽では、プログレッシブロックが好きなのですが、エマーソン・レイク アンド パーマー(イギリス出身のプログレッシブロックグループ)の曲に「聖地エルサレム」というのがあり、これはウイリアム・ブレイクの詩による合唱曲をアレンジしたもので、ボーカルのグレッグ・レイクの高貴でどこまでも透明な歌声に、私はいつも圧倒されてしまいます。

このなんとも美しい曲の詩を書いたウイリアム・ブレイクは、詩人であると同時に画家であり、幻視者でもあったというふしぎな人物です。

ブレイクの描く絵の人物は神話的で奇妙にねじれ、独特のリアリティーがあって、私は見るたびに、なんだかあの世からの息吹きのようなものを感じてしまい、画面を通じてもたらされる神秘な予感に、圧倒されてしまいます。

2009年に、ぶんか社から刊行された「警告!2012年12月 人類は滅亡する!」という本のイラストに、私はウイリアム・ブレイクの絵のモチーフをいくつか使いました。

2012年というのは、メキシコのマヤ文明の予言で、この年の12月21日、人類は滅亡するというものでしたが、「いったい世界はどうなってしまうのだろう」と、みんなけっこう心配してましたよね。

ほんとうに人類が滅亡してしまわなくて、よかったです。

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スペードの女王

「スペードの女王はひそかなる悪意をあらわす」とタイトル横にそえ書きされた、この小説は、ロシアの作家プーシキンの作品です。

若き工兵士官ゲルマンはあるとき、アンナ・フェドトヴナ老伯爵夫人が、かつてサン・ジェルマン伯から教えられた、必ずカードゲームに勝つことのできるという、魔法の数を知っているとのうわさを聞きつけ、その養女に言い寄り、彼女をあざむいて伯爵夫人の寝室にしのび込みます。

ゲルマンは夫人に銃を突きつけ、魔法の数を教えるようにと迫りますが、そのショックで、老夫人は急死してしまいます。

葬儀の後、ゲルマンの部屋に夫人の亡霊があらわれ、魔法の数を使ってカードゲームをするのは一度きりにすること、養女を嫁にもらうことを条件に、その数 3・7・1を教えてくれます。

モスクワの公開賭博場へ乗りこみ、カードゲームにのぞんだゲルマンは、まず3の札でゲームに勝ち、次に7の札でさらに勝ち、巨万の富を手にします。そして、最後の大勝負、全財産を賭けてのぞんだゲームで、1の札を手にして「1の勝ちだ!」とさけんで勝利を確信しますが、その札はいつのまにかスペードの女王にと変わっていて、しかもゲルマンに向かって女王はニタリと笑い、彼は手にしていたすべての富を失うという、恐ろしくもシャレた物語です。

私は、賭けごとに対する星というものを、まるで持ち合わせていないので、トランプゲームはもとより、競輪も競馬も興味はありませんが、この小説に登場するサン・ジェルマン伯というのは、実在の人物らしく、私はむしろこの人のほうに興味があります。

img604(日本実業出版社「論理パズル」より)