道にいるネコ

今日、郵便局に車で行く途中、道路の中央にセグロセキレイっぽい鳥がいて、なかなかどかないので、しかたなくスピードをゆるめ徐行したのですが、間近(まぢか)に車がせまっても、平気でトコトコ歩いてました。

最徐行でやりすごしましたが、通りすぎるとき横目で確認したところ、鳥はまだ道のわきをウロウロしてるようでした。

昔はもっと鳥は人間を警戒して、近づくとすぐに飛び去ったものですが、今は特に車だと「この大きいのは小まわりがきかないし、襲ってこない」と思っているのか、この鳥のように平気なのがけっこういます。

ネコになるともっとひどくて、車を駐車する場所までの私道の細い道を進んでいると、その前でネコがふり返ってこちらをジーと見たまま動かない、なんてことがよくあります。

クラクションを鳴らすと気の毒なので、やはり最徐行で近づきますが、「自分が歩いているところに、急にあらわれて迷惑している」というような顔で非難がましくこちらを見ています。

まあネコが歩いているところに、後からやって来て、順番でいえば猫のほうが先にいたので、たしかに非難は当たっているといえば当たっていますが、なんだかなあという気分になりますね。

まあ、ネコのほうは、しばらくすると急に何か用事を思い出したというように走り去って行きましたけど。

(”裏庭の入り口” 水彩画)

かざまりんぺいさんからのイラスト資料

日東書院刊の「ぼくらの大冒険ハンドブック」の著者、かざまりんぺいさんは、元少年マガジンの名物編集者にして、現アドベンチャークラブ日本代表という方。

「ぼくらの~」には、ナイフのあつかい方から、火のおこし方、釣りや工作、川遊びの方法など、大自然の中で遊ぶ知恵と技術が網羅されていますが、私はそのイラストを担当しました。

かざまさんにはイラスト作成用の資料として、たくさんの写真を送っていただき、その中には「空缶(あきかん)で作る窯(かま)」や「ゴム動力のプロペラ飛行機」など、実際に自分で作ったのを撮影したものが多くあり、ここまで充実した資料が送られてくることはそうそうないので、驚かされました。

かざまりんぺいさんには「ばくらの~」以前にも、旬報社刊の本「できる男の手づくり居酒屋料理」のイラストも描かせていただきました。

これは自分で作る刺身、和えもの、鍋、揚げもの、焼きもの、こだわりの肴(さかな)が満載の実用書で、かざまさんはこの時も、自分で作った料理のプロセスと完成写真を山のように資料として送ってくださいました。

ガッチリした体格の豪快な外観にもかかわらず、ずいぶんマメな方という印象でした。

(”ぼくらの大冒険ハンドブック”イラスト)

死と蝶

蝶(ちょう)は別の星からこの地球に持ちこまれたものだ、という話しを何かの本で読んだことがあります。

それが本当かどうかはともかくとして、蝶というのはたしかにちょっと浮世離れしたところがあります。

弱肉強食の法が支配するこの地球の自然の中にあって、あんなに薄くてヒラヒラしていて、その存在はどこか絵空ごとのようで、別の世界からもたらされたという話しも、ひょっとしたら本当かもと思わせる風情が、たしかに蝶にはあります。

スイス生まれの精神科医、エリザベス・キューブラー・ロス博士はその著書”死ぬ瞬間と死後の生”の中で「昏睡状態というのはマユみたいなもので、時がくればマユは破れて蝶が出てくる」と書いていて、人は死後、蝶のように軽やかな存在へと変容し、別の次元、別の現実の中で生き続ける、という意味のことを書いています。

立花隆さんの著書「証言・臨死体験」の中に、ノンフィクション作家の向井承子さんが、お産のさなか血流が弱くなり危険な状態になったとき、目の前にコバルトブルーに輝く巨大な蝶が舞っているのを見たという話しを書かれていました。

蝶は光の尾を引いていて、その美しさは忘れられない、ということでした。

このように蝶は、この世と彼方(かなた)を橋渡しする象徴のような、ちょっとふしぎな存在のようにも感じます。

(”星と精霊” 油絵)

ノーマン・ロックウェル

ノーマン・ロックウェルというイラストレーターを私が知ったのは、中学生のころ、家にあった”リーダーズ・ダイジェスト”という翻訳ものの月刊誌の記事によってです。

リーダーズ・ダイジェストは、主にアメリカで出版された本の抜粋やジョーク、逸話(いつわ)などが載っていて、その中にイラストレーターにして画家のノーマン・ロックウェルを紹介した号がありました。

リアルに描くというのはこういうことだ、というお手本のようなイラストが、何点も紹介されていて、そこには、古き良きアメリカの日常の場面、生活シーンが、精緻をきわめた筆づかいで、じつに見事に描き出されていました。

そんな作品のひとつに「なぐられた少女」というのがあって、同級生の男子とケンカでもしたのでしょうか、左目を腫(は)らせた12~13歳の少女がイスに座ってこちらを見ている絵なのですが、少女に悪びれたところはまるでなくて、戦いの後の晴ればれとした気分といった表情で、ニッコリ笑っていて、右奥のドアのすき間から見える部屋にいる大人(教師?)の深刻な表情との対比が、画面全体のおもしろみを盛り上げているという、なんとも素敵なイラストです。

これを見た中学生の私は「アメリカのイラストって、なんてかっこいいんだろう!」と思ったものでした。

(”なぐられた少女”部分模写)

タイムトンネル

私が小学生だったころ、テレビで「タイムトンネル」というアメリカのSFシリーズを放映してました。

アリゾナ砂漠の地下数千メートルに国家によって極秘裏に建造された、時間をコントロールする装置”タイムトンネル”は、開発途上のため、試験運用だったところ、若き科学者トニー・ニューマンとダグ・フィリップスが、実験のために自ら装置に入りこみ、過去や未来をさまよう時空の放浪者となってしまう、というストーリーです。

2人の科学者は1話ごとに、フランス革命前夜だったり、沈没前日のタイタニック号の船上だったり、旧約聖書にあるジェリコの城壁崩落の時代だったりに転送されてしまい、そこでドラマチックにストーリーが展開するというものです。

その何話めかに、”魔術師マーリン”というのがあって、くわしい内容は忘れましたが、アーサー王の時代のイギリスに暗躍する魔術師マーリンが中心となったストーリーだったと思います。

ラスト近く魔術師が、まちがってタイムトンネルのコントロールルームに回収されてしまうというハプニングが起こります。科学の粋をつくしたその場所に突然つれてこられた魔術師は、自らの魔法の力でそこから姿を消し、元の時代にもどるのですが、その去りぎわにこう言い残します。「魔法の時代が始まったか…」。

私は子供心に、自分が大人になるころには、こんな魔法のようなことも科学技術によって可能になる夢のような未来が来るんだろうな~と思っていましたが、あれから50年近く経った現在、とても夢のような未来はやって来てないですね。

ダリ「引き出しのある人物像」

2015年6月に、原宿・表参道にあるギャラリー”パミーナ”で、”花の個展”を開いていたときのこと、そのギャラリーから青山通り方向に50メートルくらい行ったところにあるビルのエントランスわきに、ダリのブロンズ像があるのを発見しました。

ダリが一時しきりに描いていた”引き出しのある人物”のモチーフをブロンズ像にしたもので、高さは1メートル40~50センチはある迫力のある彫像です。

表参道の裏通りになんの前ぶれもなく出現するという突然なかんじがなんともオシャレで、「こんなブロンズ像、ウチにも一体ほしいな~」と思って眺めたものです。

ダリの初期の絵”燃えるキリン”に登場する”引き出しのある人物”を発展させた形のもので、こちらの像のほうが、その姿はより劇的で煽情的で、これぞシュールレアリスムといった趣(おもむき)のある作品です。

私の”花の個展”はといえば、「毎年やります!」と宣言していましたが、予定変更してしまいまして、昨年から参加させてもらっている代官山のギャラリー”アートラッシュ”での”薔薇展”への出品という形で継続しています。

現在”薔薇展”開催中です(5月10日~22日 アートラッシュ代官山で検索してみてください)。よろしければおいで下さい。

(ダリのブロンズ像)

「ダウンタウン物語」

ビシッと決めたダブルのたて縞のシックなスーツにソフト帽、伊達(だて)男、バグジー・マローンが禁酒法時代のニューヨーク、夜のダウンタウンを粋にニヒルに、ズボンのポケットに手を突っこんで歩いている。そんなシーンから始まる映画「ダウンタウン物語」。(1976年制作・監督アラン・パーカー)

おりしも街は2組のギャング団「ふとっちょサム」と「おしゃれのダン」が、縄張りをめぐり抗争をくりひろげていて…という展開の中、進行するこの物語り、なんと出演者はすべて平均年齢12歳の子供たちという、じつにファンタスティックなイギリス製ミュージカル映画です。

ふとっちょサムの情婦で非合法酒場の歌姫タルーラを演じるのは、当時14歳のジョディー・フォスター。その美しく妖艶なことといったら、とても14歳とは思えませんでした。

ところがバグジー・マローンは、そんな歌姫タルーラに誘惑されてもどこふく風、彼は酒場の歌手のオーデションにやって来た清純なブラウジーに恋をして…と、なんだかひと波乱ありそうな雲ゆきになってきます。

しかし、やがてギャング団どうしで銃撃戦となっても、飛び交う銃弾はすべてパイでできていて、どんな場面もなんともふしぎな幸福感に満ちているという、他に類を見ない素敵(すてき)な映画となってます。

劇中で歌われる曲はすべてポール・ウィリアムスによって作曲されていて、これがまた映画全体に小粋(こいき)でおしゃれな味付けをしていて、私はあまりにハマってしまったため、当時住んでいた京都の街を、無理して買ったダブルのスーツで決めて、バグジーのまねして歩いてました。

(当時、水彩で描いてみたポスターです)

ジョン・オブ・ゴッド

1942年、ブラジルのゴイアス州の小村で生まれたジョアオ・テイシェイラ・ダ・ファリアという人は、16歳になったとき、ヒーラー(心霊治療師)として目覚め、以来数千万の人々を無償で癒(いや)し続け、通称「ジョン・オブ・ゴッド」として有名な人だそうです。

この人は貧困のため、小学校を途中でやめて、井戸掘り、レンガ職人などの職を転々とし、16歳のとき、疲れ果て、川で水浴をしようとしていたとき、カッシアの聖母リタ(15世紀、イタリア)の出現をうけ、「救世主イエスのスピリティセンター」に行くように告げられます。

センターの所長は彼が来ることを知っていて、「ジョアオか?」とたずねた瞬間、ジョアオは気を失い、このとき多くの精霊による導きを得て、人々を癒すことに人生を捧げるよう指示されたということです。

彼は医学界や宗教界から長く迫害を受けながらも人々を癒し続け、ついにアバジャーニアという場所にヒーリングセンターを設立し、以来ブラジルはもとより世界各国から訪れる人々に対しても、無料でヒーリングを行い、その運営費は自ら所有している農場と鉱山からの収益を当てているということです。

彼は「ヒーリングを行っているのは私ではなく神です。私は神に自分の体を貸しているだけです」と語っていて、「私がかかわっても、すべての病気が完治するわけではありません」とも語っているそうですが、毎日、世界中から訪れる多くの人を治療していて、センターには治療を受けてその場で歩けるようになった人たちの置いていった杖(つえ)や車イスが無数にあるということです。

いつの世にも、ふしぎな人というのはいるものです。

(”ジョン・オブ・ゴッド” 鉛筆デッサン)

ザバダック

ザバダックというグループは、今でも活動しているんですかね。

プログレッシブ音楽といいますか、架空のヨーロッパといいますか、独特のエキゾチックなメロディーが印象的な日本のグループでしたが、ザバダックというグループ名も、そんな曲の雰囲気によく合っていて、私は好きでしたね。

「二月の丘」という曲は、今でもネットでライブ映像が見られますが、中世的な管楽器のイントロに始まり、ボーカルの上野洋子さんの透明で天上的な歌声によって、じつにクラシカルに、ドラマチックに曲が展開してゆき、聴きほれてしまいます。

日本人離れした優美なメロディーを奏(かな)でることのできる数少ない音楽ユニットでしたが、曲の美しさの中には、常にはかなさと危(あや)うさがあったように私は感じていて、この美しさは亡(ほろ)びるのが必定のような、つまりその中に亡びが含まれるからこそ美しいといったような、そんな音楽でしたね。

中でも私が一番好きなのは「美・チャンス 妖しい輪舞(ロンド)」という曲で、これは夜ごと空から不遇の天使が舞いおりて来るような、耽美的(たんびてき)で夢想的で、気がかりな憧(あこが)れの気分をかきたてる、そんな名曲です。

(”浄夜” 油彩画)

シュヴァルの理想宮

私が世界で一番好きな宮殿は「シュヴァルの理想宮」と呼ばれる宮殿です。

それはフランスの郵便配達夫、フェルディナン・シュヴァルが、定年後33年かけて、フランス南東部オートリーブの村はずれに一人で建てた夢の宮殿です。

1879年、シュヴァルがまだ郵便配達夫をしていたとき、バイクも自転車もなかったころのこと、徒歩で郵便物を届けていたある日、石ころにつまづいてころびそうになったことがきっかけで、石を集めるようになり、それが後の夢想的な宮殿の最初の礎(いしずえ)となったということです。

シュヴァルは定年後、一人で黙々(もくもく)と石を積み、世界にあるどの宮殿とも違った奇妙で幻想的な、自分だけの王宮を造り上げました。

私は実際にそこに行って宮殿を見たわけではないですが、岡谷公二著、河出書房新社から文庫として出版された「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」に掲載されたモノクロの写真を見ただけで、それのとりこになりました。

原始の生物のような無数のオブジェがうごめく中、ふしぎな石柱やモニュメントが林立し、熱に浮かされた夢の中でしか見ることのできないような、奇妙で美しい姿のその宮殿は、まさに”理想宮”と呼ぶにふさわしい、驚くべき造形物です。

岡谷公二さんは著作の中でシュヴァルを、画家アンリ・ルソーと並ぶ「無垢(むく)の大無意識家」と記していますが、まさにその造形は、無意識の深みから出現したような奇妙さに支配されていて、ふしぎな魅力が満ち満ちています。

(”理想宮” 鉛筆デッサン)