シューベルト ピアノ五重奏曲 ”ます ”

私は10代の終わりころに京都に住んでいたことがありまして、左京区の叡山電鉄、元田中駅近くに住んでいたんですけど、よく思い出すのが、東大路(ひがしおおじ)通りを京都大学方面に下る道を、自転車の2人乗りで走ってたことですね。

画家の先輩の伊藤さんが、中古自転車を買ったというんで、その後ろに乗せてもらって、当時は2人乗りしてても、今と違ってそんなに警察はうるさくなかったですからね。

石だたみの道を、さっそうと走ってましたね。

その映像といっしょに思い出すのが、シューベルトのピアノ五重奏曲 ”ます ”の第1楽章ですけど、これは伊藤さんが口笛で吹いていたのかなあ…、口笛のメロディーが浮かんでくるんですけど、伊藤さん、あんまりクラシック知らなかったはずなので、はたしてあの先輩がそんなことするかなあ…、なんて思って。

でも私じゃないですからね、私は自転車で走る後部座席で口笛吹くなんて、そんなチャラいことはしませんからね。

あれはたしか初夏、ポプラ並木の樹間からの木漏れ日を受けて、気分もなんとなく高揚して、それでも、思わず知らず口笛吹いてしまったというような、そんな昭和の青春ドラマみたいなベタで浮かれたマネは、間違っても私はしないですからね。

あの口笛やっぱ伊藤さんだったのかなあ…、それとも空耳かなあ…。

(ピアノ五重奏曲”ます”のLPレコード ドロルツ弦楽四重奏団)

 

鉄製中華ナベ

中華ナベを買いました。北京ナベと言われるやつで、中華料理店のコックさんがチャーハン作るときに使ってるあれです。

それに合わせて鉄製のおタマも買いました。

先日ふと思い立ち、「中華の店で使ってる、あのチャーハンひっくり返しながら炒めるナベが欲しい」と、近くのホームセンターに行くと、調理用品売り場にちゃんと置いてありました、北京ナベ。

説明書を見ると、「ナベの表面にはサビ止めが塗ってあるので、煙が出るまで火にかけて、しばらくすると煙がおさまり、鉄の色が変色するので、そうなるまでカラ焼きしてから使ってください」とあって、やってみました。

火にかけるとたしかにモクモクと煙が出てきて、それが終わると、ナベ底のほうから鉄色が青黒く変色してきて、それがナベ全体に広がったところで、カラ焼き完了です。

もうこのひと手間からして、プロフェッショナル仕様ですよね。いや~いいですね中華ナベ。

把手(とって)のとこに熱さ防止のふきん巻いて、チャッチャッとチャーハンを返しながら炒めて。年季が入るまで使い込むと、きっといい雰囲気になりますね。

これ使ってると、自然に鉄分が補給されるらしいですね。テレビでお医者さんが言ってました。

最近のナントカコーティングのフライパンじゃなくて、鉄製ですよやっぱり、料理するならね。

(けっこう重いです。使用後は洗ってから、軽く食用油塗っておきます)

” エルチェ婦人像 ”

「正気を失う」というようなことは、そうそう起こるもんじゃないでしょうけど、それでも人間、一生のうちには何度か正気を失うようなこともないとは言いきれないかも…と。

まあ、不幸なできごとで正気を失うというのは困りますが、「正気を失うほどの幻想的体験」なんてことなら、私は「ちょっといいかもな~」なんて思ってしまいますけど、スペインはマドリード、国立考古学博物館に展示されている ” エルチェ婦人像 ”は「長く見ていると、正気を失う」とされてるってことで、なんとも神秘的です。

1897年にバレンシアで発見された古代イベリア彫刻ってことらしいですけど、制作年代は推定で紀元前4~5世紀、この貴婦人が女神なのか女司祭なのか、詳しいことは何もわかってないらしいですよ。

超然としていて、どこかおそろしいようなところもあり、魅入られてしまいそうな、神秘な顔立ちで、私は気に入ってますね。

長く見ていると、この像に宿る不可思議な意識にとらわれて、正気を失ってしまうんじゃないかと、たしかにそんな気もしてきますね。顔の両側にある髪飾り(?)も異様です。

 

ソバを食う

むか~しですけど、新宿駅西口改札を出たあたりだったと思いますが、天津甘栗売ってる近くに、立ち食いソバ屋があって、(あるいは、もしかすると阿佐ヶ谷駅の南口だったかも…記憶があいまいで)そこで、私がかけソバ食ってると、カウンターのむかいで同じようにソバ食ってるおじさんがいて、その食い方がじつに素晴らしかったですね。

普通、ソバ食べるときって、ハシでソバをたぐるとき、あんまり顔は動かさないですけど、ところが、そのおじさんはソバをたぐるとき、ダイナミックに顔を上下に動かすんですね。

しかもその動作が、ソバを口に入れたときも継続して、ズズーとソバを吸い込むときは顔がズイーとソバに近づき、充分にほうばると今度は顔がグイーンとそり返って、それはまるでそばを顔の動きで吸い込もうとでもするようなかんじでしたね。

そしてすぐに、ドンブリから次のソバをたぐるわけですけど、これも今しがたの動作からの有機的連繋といいますか、じつに見事な連続性を持って、顔の上下動がくりかえされるという、これは言葉で説明するのはちょっと難しいですけど、この一連の動きはぜひ皆様にお見せしたかったな~と思ってしまうような、そんな見事なソバの食い方だったですね。

もう40年以上もたっているのに、いまだに私ははっきり覚えてますね。

あのとき一度っきり見ただけですけど、あのおじさんは、ソバの食い方と同じように、きっとその性格もダイナミックだったんじゃないかと思いますけど、あのようなソバの食い方は、以来二度と見たことがないものですね。

(夜食用のインスタントそば)

 

” ベリー公のいとも豪華なる時祷書 ”

南フランスの城に伝わる、世界で最も美しいとされる本、” ベリー公のいとも豪華なる時祷書 (じとうしょ)”。

これの6月のページを飾る挿絵には、畑の手入れのために草刈りをする中世の農民が描かれてます。

15世紀に作られたこの本は、もちろん印刷技術なんてなかった時代のものですから、最高級の子牛のなめし皮に手書きの文字、挿絵が入れられた1点ものの超豪華本。

フランスの王族が金に糸目を付けずに作らせた礼拝用の書物で、1年の各月を黄道12宮の星座に合わせて、行事や農作業の様子などを描いた絵で飾られ、それぞれに合わせた神への祈りの文言がラテン語で書き込まれています。

その6月の挿絵の画面右奥には、大鎌(おおがま)を持った3人の農夫が畑の雑草を刈り取る姿が描かれていますが、それと同じ農夫の絵が、キングクリムゾンのアルバム ”リザード ” のジャケット裏面、装飾的にデザインされた「K」の文字の上部にも描かれています。

そして、その同じ農夫のモチーフが、なんと、わたくしの油彩画 ”種まきの日 ”の絵の中にも登場してるんですね~。

わたくしの絵では、農夫は3人じゃなく2人になってるんですが、これはまぎれもなく ”ベリー公のいとも豪華なる時祷書 ”からキングクリムゾンのアルバム ”リザード”に、そして ” リザード”からわたくしの ”種まきの日”にと、期せずして引き継がれた、中世ヨーロッパの美しくも象徴的、牧歌的モチーフの継承ということになりますでしょうね。

(うちの応接間に飾ってある”種まきの日”)

植物の意志

仕事で植物の育て方や植物図鑑なんかの本のイラストを、ときどき描いてます。今年も何冊かやりました。

いまさらですが、植物はふしぎだな~と思いますね。

タネをまとめて5~6粒ずつまき、芽が出て、双葉(ふたば)が出て、本葉が出て育ってきたころに間引(まびき)して、つまりそれは、まず5~6粒のタネから発芽した苗を競わせて、一番よく育ったものを残して、あとは間引いてしまうということですが、植物にもまわりのヤツと競争しようという意志があるってことなんですかね。

そうじゃなくて、タネの中のたまたま優秀なのがよく伸びるというだけなんでしょうかね?それとも1本だけじゃそれほどでもないのが、数本で一緒に伸びると競うようになるんでしょうかね?

もしそうなら、発芽した芽は「となりのあいつがそんなに伸びるんなら、自分はもっと伸びてやる」てなかんじで意気込んで、より成長しようとするんですかね。

もし植物にそんな意志があるとしたら、ふしぎですね。

仮に、植物に意志があるとしたら、その意志、志(こころざし)を、植物はどこに宿してるんでしょうね。

人間だったらなんとなく、その意志は脳のあたり、あるいはハートのあたりにあるのかな~なんて思いますが、植物の場合、それは根にあるのか、葉にあるのか、幹にあるのか、よくわかりませんね。

あるいは、人間の心も本当はどこにあるのかわからないように、植物の意志も、我々のまだあずかり知らない、どこか別のところににあるんでしょうかね。

(最近イラストを描いた本です。朝日新聞社”山野草図鑑” 池田書店”草花・雑草図鑑”)

MMT(現代貨幣理論)

経済のこと、金融のことは私はホントに苦手ですね。

一般的な経済の話しでも、その用語を聞いてるだけでダメですね。

脳ミソの仕組みがそっち方向のことを理解するようにはできてないんでしょうね。

キリストの弟子がキリストに、天の国での結婚のことについてたずねると、キリストは「天の国では、互いにめとったり、めとられたりすることがない」と答えてたと思うんですけど、それと同じで「天の国では、お金を支払ったり、税金を取られたりすることもない」んじゃないかと思いますけど、つまり、まあ天の国とは言わないまでも、お金や経済活動というのは、この3次元物質世界だけでのことで、もっと言うなら惑星地球だけでのことで、同じ3次元世界でも、もっと進化した星とかには、お金や経済活動はないんじゃないかと、私は思いますけどね。どうなんでしょうね?

UFOで地球に来てる宇宙人に、そのこと聞いてみたいもんです。

最近話題のMMT(現代貨幣理論)モダン・マネタリー・セオリーですか?あんなのになると、私はさらにわからなくなりますけどね。

自国通貨を発行してる国の政府は、いくら赤字国債出してもだいじょうぶ、てなことなんですかね?違ってますかね?

普通の経済の話しだって、私には負荷が大きすぎるのに、MMTなんてね…

この理論が「正しい」と言ってる人も、「間違ってる」と言ってる人も、それなりにちゃんとした理屈言ってるように、私には思えて…どっちが正しいんでしょうね。

そして、この先、世界の経済、金融はどう変わって行くんでしょうかね?

(庭のバラが、右半分を鹿に食われまいた。頭にくる~!です)

ウイリアム・ジェームスの法則

むかし親戚のおばあさんが、なんだかひどく人生を悲観してるふうだったので、軽くなぐさめるつもりで、冗談ぽく「人間、死んでも終わりじゃないって話も聞いたことあるし、あまり先のことで悲観せずに過ごしたらいいよ」と言うと、おばあさんは「あのね、人間はね、死んだら終わりなの。人間は死んだらなんにもなくなるのよ」と断言してましたね。

それを聞いて私は「いやあ、これほど断定できるとはな~」とびっくりしたものでしたね。

ジャーナリストの立花隆さんは、相当の労力をついやして死と死後の生について取材して、それが存在するともしないとも結論できないということを ”臨死体験 ” という著作にしてますし、アメリカの脳神経外科医のエベン・アレクサンダーは自らの臨死体験をもとに、死後の生の可能性について ” プルーフ・オブ・ヘブン ”という本を出版してますし、その他、数多くの研究がなされて、いまだその結論は出されてない中、このおばあさんの自信はどこから来るんだろうな~と、不思議に思ったものでした。

かの斎藤一人さん(健康食品会社の社長さん)は、「霊はあるの。人は死んだら終わりなんて言う人は、あまりに勉強してなさすぎ」て言ってましたけど、まあ、臨死体験だの死後の生だのは、普段テレビ見ててもあまり接する機会のないことですからね。

しかたないといえば、しかたないことかも知れませんし、たまにそれっぽい放送あったとしても、だいたいオカルト番組でおもしろおかしくやってるだけで、そんなこと真に受けないという気持ちになるのはしょうがないでしょうけどね。

アメリカの心理学者のウイリアム・ジェームスという人は、「それを信じたい人には信じるに足る材料を与えてくれるけど、疑う人にまで信じるに足る証拠は与えられない。超常現象の解明というのは、本質的にそういう限界を持っている」と言ったらしいですしね。