ジミー・ペイジ

私が若かったころは3大ギタリストといえば、ジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックでしたけど、今はどうなんでしょうね。

私はもう、バリバリのジミー・ペイジファンでしたね。かっこよかったですね。ネックの2つある12弦ギターを、長身のスリムな体で弾きまくって、顔立ちも端正でね、”イミグラント・ソング(移民の歌)”や、”天国への階段”、”カシミール”なんかの作曲者ですからね。もう神様みたいなもんでしたね、私にとって。

私はギターなんてまったく触ったこともないし、音符なんて、あんなもの見て、どうして曲を弾けたりするんだろうと、魔法でも見るような気分になりますが、そんな音楽0点の私でも、ジミー・ペイジは神様でした。呼びすてにするのが気が引けるくらいで、ジミー・ペイジ様と言いたいくらいの気持ちでした。

昔、イギリスにアリエスタ・クローリーという魔術師がいましたけど、顔が似てるんですよね、ジミー・ペイジに。

だからというわけじゃないんですけど、ジミー・ペイジの作る音楽は、なんだか魔術的な趣(おもむき)があって、私は彼の作る曲は、ジャンルとしてロック音楽じゃなくて、”ジミー・ペイジ”という独立したジャンルだと思ってます。

今でも白髪なびかせてかっこいいです。長生きしてほしいですね。まだまだ引退しないで、ベートーヴェンでいうところの第九シンフォニーのような、あるいはピアノソナタ第32番のような作品を作ってほしいものだと思いますけどね。

(レッドツェッペリンファーストアルバム 初回プレス版)

タケノコ戦争

今年もタケノコ戦争が勃発しました。宣戦布告はいつもタケノコの側からです。

春になって、「冬もそろそろ終わって、ほんとに過ごしやすい季節になったな~」なんて平和な気持ちになっていると、庭の片隅にある竹やぶに、タケノコは最初、何本か顔を出します。

「2~3本、出てるな」なんて思っていると、1~2日もするとあっちこっちからタケノコはニョキニョキ出現し、歩きにくい斜面や、草の茂ったその奥など所かまわず顔を出し、油断してるとぐんぐん伸びて、見る見る成長していきます。

放っておくと、庭の中まで攻めて来て、気がつくと1メートル近くまで伸びていて、皮のはがれた根元のほうはうっすら緑色に色づいて、もうすでに立派な竹の風格をそなえた姿にさえなってやがります。私はクワをかついで竹やぶに入り、かたっぱしから掘り起こしにかかるというわけです。

タケノコ戦争の始まりです。

掘っては食い、掘っては近所に配り、それでも間に合わず、伸びすぎたものはキックして折り、そりゃあもう汗だくで、にもかかわらずタケノコの勢いは弱まることを知りません。ちょっと気持ちが折れそうになることもありますが、タケノコ戦争に「負けるが勝ち」なんてのはありません。

負ければ竹やぶは密生する竹だらけ、庭も竹やぶになり、やがては家も竹に持ち上げられ、私は伸びた竹に押し上げられた家に住む、ツリーハウスならぬバンブーハウスの住人となり果てることでしょう。

「竹って風情があるわよね~」なんて、のんきにのたまうやからには、一度このタケノコ戦争に参戦してみることをお薦めします。

(驚異の双子)

”森の時間”

”なごり雪”という昭和の名曲は、いろんな人がカバーしてますけど、私が密(ひそ)かに「これが一番」と思ってるのが女優、裕木奈江の歌う”なごり雪”ですね。

裕木奈江、知りませんかね。昔、ドラマやCMにいっぱい出てて、私は見てませんけど、”ポケベルが鳴らなくて”というドラマでは、緒形拳さんの不倫相手やってた人です。

あるとき、KKベストセラーズという出版社の打ち合わせで行った高田馬場駅近くの中古CD屋に入って、CD物色していると、”森の時間”というタイトルの彼女のCDアルバムがあって、フラフラ~と買ってしまったのが縁で、不覚にもハマッてしまいましたね。

CDの中には、当時の彼女のイメージに合わせた歯の浮くようないたいけなさ満載の、赤面してしまうような曲もあったのですが、ちょっといいなと思える曲もあって、人に隠れて聴いてましたね。

なにしろ、それまでの私の自己イメージは音楽ならレッド・ツェッペリンに始まり、キング・クリムゾンのスピンオフ、ロバート・フィリップスのソリッドなアルバム”エクスポージャー”で完結した後、クラシック畑に移行したという、ストイックにしてアダルティー(笑)なものだったわけですから、「裕木奈江のアルバム持ってます」と言うのは、ちょっとはばかられるんじゃないか、と恐れていたわけです。

そんな彼女のアルバムのひとつ、”ever  green”の中に”なごり雪”は入っていて、私はウットリしながら聴きふけってましたね。

今ではユーチューブでも聞くことができます(なごり雪(NAE  YUUKI  ver))。このアルバムの中には”春・夏・秋…”という名曲があって、私はこれにもシビレましたね。これもユーチューブで聴けるようになるといいんですけどね…。

”悪魔がにくい”

昭和ヒット歌謡に”ハチのムサシは死んだのさ”なんてのがありましたね。平田隆夫とセルスターズでしたっけ。

ハチのムサシって何でしょうね。「ハチのムサシはむこう見ず。真っ赤に燃えてるお日様に、試合を挑んで負けたのさ」っていうんですけど、1972年の曲で、私は当時、ラジオから流れてくるその曲をボンヤリ聴いていて、勝手になにか宮沢賢治チックな”よたかの星”的な有名な話しがバックにあって、その内容を歌詞にしてるのかな~なんて思ってたんですけど、そうでもないようですね。

丸メガネかけた女性とロングヘアーの女性が2人でボーカル取っていて、男性何人かがバックコーラスをやってましたが、なんだか意味ありそうで、なさそうな歌詞で、印象に残ってる曲ですね。

このセルスターズに”悪魔がにくい”という曲があって、自分の愛した女性が心変わりして、「おまえの胸にしのびこんだ悪魔が僕はにくい」という歌なんですけど、この歌詞も昭和ならではのもので、いまではこんなに持ってまわった表現はしないですから、久々にユーチューブで聴いてみると、時代の空気がよみがえってくるようで、懐かしかったです。

(約10年後、こんなのもヒットしてました)

通仙散(つうせんさん)

以前は、1歳や2歳の子どもだったころのことは記憶されないというのが医学の常識だったようですが、、T・バーニー著「胎児は見ている」(祥伝社刊)や、D・チェンバレン著「誕生を記憶する子どもたち」(春秋社刊)によると、1~2歳児どころか、胎児であったときの記憶を持つ者もいるということで、私たちはそれを忘れてはいても、意識の深い部分にはその記憶がしっかりと保持されている可能性もありそうです。

もしこれが本当なら、一部の宗教で行われている割礼(男の赤ちゃんの男性器の皮膚の部分を切除する儀式)なんて、どうなるんでしょう?この世に来たばかりの魂が、その肉体で最初に体験するのが、局部への激烈な痛みだったというのは、その子の成長にどのような影響をおよぼすのでしょうか?

私なんて、痛みにはめっぽう弱いほうなので、大人の今でもそんなことされたらとても耐えられないでしょうね。あまりの痛みに気を失うんだったらいいほうで、私なら強い怒りと恐怖を心の奥深くに抱いてその後の人生を歩みそうで心配ですけどね。

それでも、どうしても必要というのであれば、せめて麻酔してほしいですね。考えてみれば麻酔を発明した人は偉大です。日本では江戸時代の外科医、華岡青洲でしたっけ。奥さんが実験台なることを申し出て、そのために失明し、結果として多くの人を救うことになる全身麻酔薬「通仙散」を完成させたということです。

(華岡青洲 模写)

モーツァルト ”クラリネット協奏曲”

モーツァルトは死の3か月前にクラリネット協奏曲イ長調(K622)を書きあげていて、ブラームスもクラリネット協奏曲を作曲していますが、両者にはけっこうな隔(へだ)たりがあるなと感じますね。

お名前は忘れてしまいましたが、音楽評論家のどなたかだったかが、「ブラームスのクラリネット協奏曲は本当によく作りこまれていると思いますが、モーツァルトのクラリネット協奏曲は天から降りてきたというしかありません」と言っていたのを覚えています。うまいことをいうもんだな~と思いましたね。

ブラームスだって立派な作曲家なんだと思いますけど、モーツァルトの曲を聴いたときの、気の遠くなるような至福感を、ブラームスの曲では、私は体験できませんでしたね。

私は音楽の教育を専門に受けたことのないシロートなので、作曲技法や構成についてはなにも知りませんが、ただ音楽がもたらしてくれる至福体験ということで言えば、モーツァルトの曲にはそれがありましたね。

夢から覚めかけたとき、うつろな目に映る揺(ゆ)れるこもれ日にようなと言いますか、あたたかい日の午後の幸福と言いますか、まあ、言葉にしようとすると平板になってしまいますが、モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調は、私にとってふしぎな至福に満たされる音楽ですね。

フランソワーズ・サガンの小説に”ブラームスはお好き”というのがありましたが、私の場合ですと「まあ、さほどでも」ということになりますかね。ブラームスのファンの人からは罵倒(ばとう)されそうですけどね。

(モーツァルトのクラリネット協奏曲イ長調LP)

カナの婚礼

カナの地での婚礼のとき、ぶどう酒がたりなくなって、イエス・キリストは水がめに入った水をぶどう酒に変えたという話しが、たしか聖書の中に出てたと思いますが、このように、キリストほどの高い意識を持った人が念ずれば、水をぶどう酒に変えられるのなら、ひょっとしたら核廃棄物だって、念ずることで無害化させられるかも、と思いましたね。

まあ、問題は現代にキリストのような人がいるかどうかですが、あそこまで神ががった人でなくても、たとえばちょっとだけ霊性の高い人なんてのは、今でも地球にはたくさんいるでしょうから、そういう人たちが、そうですね~、100人、いや1000人か、あるいは1万人くらい集まって、集まるのが無理なら、この地球上で同日、同時刻に念ずることをすれば、ひょっとして核廃棄物が魔法のように無害化して、鉛かなにかに変わる、なんてことが起こるかもしれません。

これだと精神の力であり、科学技術じゃないので、大国や危険な国家に悪用され、応用されて軍事利用されることもないと思うので、なかなかいいんじゃないかな~と思いますけどね。

科学技術にだけ長(た)けた霊性の低い技術者じゃ、それがどんなに知恵をしぼっても、この意識による技法は使いこなせないので、安心です。

地球を見守っておられる神々は、この方向で核によるこの星の破滅の救済というアイディアを、地球にいる霊性の高い人たちの潜在意識に働きかけ、アクションを起こさせるというのはいかがでしょうか?

インターネットで広めれば、どうにかなるんじゃないか、なんて思いますけどね。まあ、さっき思いついた妄想ですけどね。

クラフトワークのLP「レディオ・アクティビティー(放射能)」ジャケット

 

 

黒ネコの黒ベエ

うちの庭はいろんなネコの通り道になってます。

赤い首輪をつけたとなりの家のネコや、ちょっと遠方の飼いネコ、半ノラのネコなど、いろんなのがわがもの顔で通りぬけて行きます。

ネコにとってはどこがどの家の庭だ、なんてのは関係のないことで、そんな認識もないでしょうから、こちらが庭で掃除なんかしてると、「自分の通り道に邪魔なのがいる」というかんじで迷惑がっているようなかんじで、こちらが知らん顔で掃除を続けていると、「まあ、害のないヤツだな」と、こちらをしばらく見たあと、なにごともなかったように通って行きます。

去年の末くらいから、黒ネコでパンダみたいに口のまわりが白いのが時々、通るようになりましたが、どうも半ノラのようで、あるときちょっとエサを投げてみると、少しひるんで後ずさりして、でもすぐにもどって来て食べはじめました。

何度かそんなことをしているうちに、黒ニャンは当然のような顔をして「ニャー」と鳴いてエサを催促(さいそく)するようになりました。両足をそろえてかしこまった態度で「ニャー、ニャー」言うので、しょうがなく時々キャットフードをあげてます。

黒ベエ

クオロ・ミヨラ

フィンランドの女性医師、キルデさんは、臨死体験をした後に「クオロ・ミヨラ」(フィンランド語で”死は存在しない”)という本を書いたそうです。立花隆氏著「臨死体験」の中にそう書いてありました。

最近また読み返してみましたが、おもしろかったですね~。”死は存在しない”は、臨死体験後のキルデ医師の実感だそうです。

彼女は自分の臨死体験を科学的立場から説明しようとして、「脳の低酸素状態が生んだ幻覚」、「精神分裂に近い精神異常現象」、「薬物投与による幻覚」などの可能性を考えてみたそうですが、どの説明にも無理があり、結局一番簡単に説明できるのは「臨死体験とは、肉体を離れたあなた自身の本質的存在」が「3次元の世界で着用している肉体を脱ぎ、別の次元に入っていくこと」だと語っています。

多くの人は誰でも、自分の肉体が自分そのものだと思っているので、自分の肉体の死は自分の意識の消滅であると思っているでしょうけど、臨死体験をすると、その思いは大きくゆらいで、この世とこの身体は、まるで夢のように過ぎ去るもので、夢から覚めたあと(つまり肉体を去ったあと)の自分こそが、本当の自分だという思いを強くするようです。

この本の著者の立花隆氏は、その知的インタビュアーとしての立場から、臨死体験者の語るそんなスピリチュアルな話しにためらい、科学的常識人として、なんとかそんな内容に抗(あらが)おうとしていますが、キルデ医師のような科学的立場の人から語られる、かなりぶっ飛んだ話しに本当に戸惑ってしまっていることが、その文章から読み取れて、たいへんおもしろかったですね。

まあ、事の真相は、立花さんもご自身で死を体験してみない限りわからないとうのが本当のとこでしょうね。

アマルフィー

イタリア南部、カンパニア地方の美しい海岸の町、アマルフィー。その映像を眺(なが)めていると、ここは、もしや天界かも?なんて思ったりします。

若いころは、好きになった女の子なんか見ていると、その服にできたヒダのひとつさえ愛(いと)しく思えてしまったというそれに似て、アマルフィー海岸の映像に一瞬よぎる道路の、そのわきに落ちている小石のひとつにさえ、私は愛を感じてしまいます。なんて、それはちょっと大げさにしても、その石ころをもしここに持ち帰って、ポケットの中にでも入れていたとしたら、それから広がるヨーロピアンで地中海チックな波動によって、私は少し幸せな気分でいられるんじゃないか、なんて思うほどです。

映像に映る海辺の家なんか見ていると、「あの窓のひとつひとつに現実に人が住んでいて、それぞれの生活があるんだな」なんて思って、「あの部屋で暮らすことになったその人と、それを見ながらここで暮らすことになったこの私は、一体どのような違いでそうなったのか」と考えこみ、「今、ここで暮らすこの私と、たとえばシリアの紛争地に生まれ育ったその子どもとは、これまたどのような違いでそうなったのか」なんてことにまで、思いが至ってしまいます。

この世界には何ひとつ偶然はない、というなら、ここで生活する私も、アマルフィーで水浴を楽しむ人も、シリアの激戦地に生きるあの子どもも、簡単には言うことのできない必然的な巡り合わせのもとに人生がこうなっているのだろうな、なんて思って、「いやあ、宇宙も人生も、じつに不思議だよな~」なんて思って、映像を見るために手を止めてしまったイラストの仕事を、再びいそいそと始めたといった、そんなかんじです。