ロレックス ”デイトナ”

往年の映画スター、ポール・ニューマンの持ってたロレックスがオークションに出品されて、20億円の値がついたらしいですね。びっくりです。

ロレックスの人気モデル”デイトナ”の初期のものらしいですけど、ポール・ニューマンの娘のボーイフレンドが持ってたものとのこと。

娘さんは大学生のころ、自分がポール・ニューマンの娘だということを隠していたらしいのですが、友だちのジェームズが、サラダドレッシングのラベルについているポール・ニューマンの写真を見て「ぼくは子どものころ彼に会ったことがある」と語りはじめたそうです。子どものころのジェームズはカーレースの会場でレーシングカーの写真を撮ろうとしていたとき、レーサーだったポール・ニューマンが手まねきして、もっといい写真を撮れるよう近くに呼んでくれたということです。

「そのポール・ニューマンは私の父よ」と娘さんは言い、二人の交際が始まり、1984年の夏、二人はニューマンファミリーの家にいて、ジェームズはポールに時間をたずねられ、自分が腕時計を持ってないことを告げると、ポールは愛用のロレックスをジェームズにプレゼントしてくれたということです。それが今回、20億円で落札された”デイトナ”だそうです。

さて、私の愛用の腕時計は、15年くらい前に玉川高島屋のアンティークショップにあった、逆輸入のセイコーの中古品で、たしか2万8千円でした。逆輸入なのでカレンダーがフランス語になっているのがちょっと自慢です。

まあ、これはオークションに出そうとしても却下されますけどね。

(フランス語のカレンダーなので、月曜日は「LUN」)

アダモ「雪が降る」

雪といえば、フランスの歌手、アダモの曲、”雪が降る”ですね。

中学生のころ、ちょっと好きだった同じクラスのS子ちゃんのノートをのぞき見ると、「雪は降る、あなたは来ない~むなしい夢、白い涙、鳥は遊び、夜はふける」と書かれていて、この子はなんて詩情にあふれてる人なんだ!それに女の子ってスゴイな、同じ中学生だけど、自分にはこんなに大人びたカッコイイ詩は思い浮かばないな…、と驚いた記憶があります。後で、それはアダモの歌の歌詞の日本語訳を写してただけ、と知ったんですけどね。でも、だからといって、S子ちゃんに対する私の思いはみじんも損(そこ)なわれなかったですけどね。

アダモには日本語でもこの曲を歌ったレコードもありましたが、これはやはりフランス語でなくちゃいけませんね。「トンブラ ネジュ ジュネビャン ラ パッセスワ~」とかなんとか、たしかそんなかんじでしたけどね。

しんしんと雪が降る夜、ぜんぜんS子ちゃんと付き合ってもないのに、中学生の私は部屋でひとり、アンニュイな気分で「あなたは来ない…」なんて、なんちゅうこともない空想といいますか妄想といいますか、そんな詩情にひたっていたものです。

(学研図鑑”まるごと日本の季節”に描いたイラスト)

ウインター・ワンダーランド

昨日、雪がふりましたね。このあたりは昼ころからふり始めて、あっというまに積もりました。10センチ近く積もったんじゃないですかね。

子どものころは雪が積もるとワクワクしましたね。

普段見なれた景色が、白一色になって、どこか別の世界のような様相を呈(てい)して、昔、ビング・クロスビーが歌ってた”ウインター・ワンダーランド”という曲がありましたが、内容は恋の歌らしいですけど、子どもの私にとっては、”ウインター・ワンダーランド”の曲は、冬にだけ入って行ける白銀のふしぎな世界のことを歌っているというイメージで、なんだか魔法にかけられたような、おとぎ話し的な気分になれる、心はずむ冬のメロディーでした。

今は、雪がふっても、雪景色はもう、どこにもふしぎな世界にはつながってなくて、私は現実的な人間として、セカセカと長グツをはいて庭に出て、車の通る場所の雪が夜になって凍らないようにと、シャベルで雪かきをするという、なんということもない、夢のない大人になってしまいました。

いつかまた、もう一度、子どもの気分にかえって、「We’re  having  tonight  walking  in  a  Winter  Wonderland. すてきな冬の国をあるきましょう」なんて気持ちになって、雪の景色の中をどこへ行くでもなく歩いてみたいものです。

(庭に積もった雪)

忙しいです

年明けからイラストの仕事が、大変に忙しいです。

だいたい同じころに締め切りが集中していて、そこに前々からやっていて、しばらくペンディングになっていたものが急に動きだしたり、どうしてもやってほしいと無理やり入れられた急な仕事もあったりと、本当に重なるときは重なるもので、今だって「おいおい、ブログ書いている場合じゃあないだろう?そんな暇あったら筆を動かせよ!」と、自問自答してみたりですが、とにかく忙しいです。

「でも仕事があるのは良いことだ」と言いながら、「いやいや、あり過ぎるのは、どうなんだ」と反論して、、「ないより、あり過ぎるほうが、いいに決まってるだろう」と返して、「でも締め切り、間に合わなかったら、版元さん全体に迷惑かけることになって、大問題だぞ」という不安が頭上にのしかかり、「うわ~」と叫んびたいのをこらえ、気を取り直して、「ここは”まあ、なんとかなるだろう”の精神だ!」と、自身を励まし、「やるしかないのココロなのだ!」と、赤塚不二夫先生チックな言葉で、自分に気合を入れたと、まあ、そんなかんじです。

そういうわけで、年賀状出せてないです。出版社の皆様、プロダクションの皆様、すみません!

(忙しいので、画像はなしです。)

”パリ税関”

原画を見たことないにもかかわらず私がそこはかとなく好きな絵は、アンリ・ルソーの”パリ税関”ですね。

これを私は中学校の美術の時間、先生が配ってくれた複製画で初めて見たのですが、強烈なデジャヴ感といいますか、忘れ去った夢の記憶の、その彼方(かなた)の記憶を呼び起こされたような、胸がザワザワとして落ちつかないような、そんな気分になりました。

”パリ税関”は、絵としては一見(いっけん)、特にふしぎ感のあるものではなくて、緑の樹のある当時の税関の門(ルソーが生きていた時代、パリには税関がありました)と、そこに立つ官吏(かんり)の姿が描かれた素朴な油彩画ですが、この絵の景色を、私はまるで以前からよく知っていたような、一種郷愁に似た強い感情におそわれて、その日の美術の授業は、なんだかうわの空で、複製画をチラチラ眺(なが)めてばかりいたように思います。

絵の中の、あの煙突のむこうにある場所に私は歩いて入って行けそうな気がして、その先の空の雲の下にある場所も、なんだかよく知っているのに忘れてしまっているなつかしい場所であるよいうな気がして、思い出せるはずもないのに、懸命(けんめい)にその場所のことを思い出そうとして、益(えき)もない無駄な奮闘を、授業のあいだじゅうしていたような気がします。

(”パリ税関”)

フランス・ギャル

フランス・ギャルが亡くなったということです。70歳、乳がん。まだそんな歳だったんですね。はるか昔から知っていたので、もっと高齢かと思ってましたが、私と10歳も離れてなかったなんて、初めて知りました。

”夢みるシャンソン人形”がヒットしたのが1965年ということで、私が小学校4年生のときです。小4からすればお姉さんですが、後で曲を聴くと、フランス・ギャルはホント少女チックで、コケティッシュで、フランスの女の子のかわいさ満載の歌声です。

曲はセルジュ・ゲンズブールの作詞作曲で、名曲ですね。美しさと、せつなさと、ほんのちょっとの悲しさと、そんなのが混ざり合ったメロディーで、心の琴線(きんせん)をビンビン刺激してきます。私か、私よりもう少し年上の人にとって永遠のフレンチポップスですね。

彼女の曲で他に私が好きなのは”すてきな王子様”(Un prince charmant)や、”恋のためいき”(Polichinelle)で、この”恋のためいき”は、ダニエル・ビダルも歌っていて、私は中学生のころ彼女に夢中でしたね。

歌詞にでてくる「ポリシネル」とは道化人形のことで、「彼こそ白馬の王子様~男の子は魔法のようにポリシネル人形に変わってしまったわ…」と歌われていて、なんとも童話的でふしぎなときめきを覚える名曲です。

”夢みるシャンソン人形”を始めとする、このおとぎ話しチックな人形の悲しい恋心の気分を受け継いでいる最近(最近といっても、ちょっと前ですが)の曲は、日本のテクノポップユニット、パフュームの”シークレットシークレット”だと、私は思ってますけどね。

(フランス・ギャルCD ご冥福をお祈りいたします)

逆上(さかあ)がり

私はおそろしく運動オンチな子どもでした。

祖母が注意深く育てすぎたせいで、やっと歩き始めたころ、母が手を引いて近くの橋を渡らせようとすると、危ないから端のほうを歩かないようにと、母に注意したりする神経質な子だったようで、そのせいもあり、飛んだり、はねたり、走ったりの運動は、私にはすべて危険なものに見えたらしく、そういうことはいっさいやらなかったので、小学校に行くころまでには、すばらしく運動オンチの子どもがいっちょう上がりしていたと、まあそんなワケです。

そういうことで、小学生の私は、自分が運動できないものと完全に思いこんでいて、そのことにまったく疑問を持っていませんでした。

ちょっと病弱で、よく学校を休んでいたこともあり、自分自身もまわりの友だちも、私のことをそういうものだと理解してました。

5年生の体育の授業のとき、鉄棒で逆上(さかあ)がりをやるということになったときも、私は「あ~あ、また自分だけできなくて、みんなに笑われるんだな~」なんてあきらめてましたが、自分の番になり、鉄棒の前まで走って行き、「どうせ無理だよな」と思いながら、鉄棒に手をかけ、「いちおう、やろうとはしました」と言いワケだけのつもりで、フン!と体を持ちあげると、なんと私は鉄棒の上にクルリと上がって、逆上がりができてしまいました。

見ていた友だちや先生は少し驚いたようで、でも授業は淡々(たんたん)と続いていきましたが、私は内心ものすごく驚いていて、「自分も、もしかして人並みに運動できるのかも」と、そのとき初めて思ったものでした。

(大日本図書の教科書”中学保健体育ノート2年”に描いたイラスト)

ハワード・メンジャー

ニューヨーク、ブルックリン生まれのアメリカ人、ハワード・メンジャーというUFOコンタクティーは、1956年8月にUFOに乗せてもらって、月の裏側にあるドーム型の建物に招待されたらしいです。

私が生まれたのは同じ1956年2月なので、この半年後、私がまだオムツをしてオギャーと泣いているとき、ハワード・メンジャーは月のUFO基地で、魅力的な異星人の美女から軽食などのもてなしを受けていたということになり、なんだかちょっとうらやましいです。

そのころ生後半年の私は、重力をはじめとする地球の物理法則にひどくうろたえ、「いったい自分はだれで、この不自由な肉体の中にいて、なにをしようとしてるんだ?」ととり乱(みだ)し、「ここにはなにか決意のもとに生まれてきたような気もするけど、そうでないような気もするし、それはともかく、今は手足を動かすのも大変で、立って歩くことだってままならない…、ん?立って歩く?立って歩くって?そもそも歩くってなんだっけ?」なんて、赤ん坊らしい思いにとらわれて、親のなすままに寝床の中に寝かされて、障子(しょうじ)に映って揺(ゆ)れてる木漏(こも)れ日の動くのを、ボー然と眺(なが)めていたと、まあそんなかんじだった気がします。

このメンジャーが写した月面の写真は現在も残っていて、1990年、NASAが撮影した月面写真とピタリと一致するらしいです。

さて、メンジャーが「私の記憶に残る体験」と言っているのが”偉大なる宇宙の師”の語ったメッセージだということです。

「万物のすべては意識をもっており、その意識が魂までに進化すると、より高次な生命体となり人間はその最高峰、万物の霊長なのです。~死は意識の終わりではなく、異なったタイプの経験への継続なのです。肉体の背後にある”感覚”は残りつづけ、さらに啓発された意識へと覚醒(かくせい)していくのです」、というもので、メンジャーはこの他にも、第2次世界大戦でアメリカ陸軍に配属され、激戦地となった沖縄で戦っていたとき、異星人から「政府はあなたがたのまだ知らないものを開発しています。彼らはこの知識を世界の平和のためでなく、破壊のために使おうとしていて~それは世界を震撼(しんかん)させるものとなるでしょう」とのメッセージを受け取り、その数日後、彼は日本に原爆が投下されたことを知ったということです。

(ハワード・メンジャー)

”デルフトの眺望”

油絵は、画面の凹凸や、絵具と溶き油がからみ合ってかもし出す質感なども含めて、一種独特の空気感のようなものが見る者に伝わってくるので、やはり原画で見るのと、印刷されたものを見るのでは、インパクトが違いますね。

原画で見るべき絵で、その筆頭はヨハネス・フェルメールの”デルフトの眺望”ですね。

これは複製で見ても、原画の持つ衝撃は伝わってこないです。

ゴッホが「信じがたい絵だ」と言い、マルセル・プルーストが「世界で一番美しい絵」と書き残したその臨場感を体験するには、現物(げんぶつ)を見るしかないでしょう。

「じゃあ、おまえは原画、見たのか」と言われると、これが見てないんですね、私は。「じゃあどうして、あたかも原画を見てきたようなことを言うんだ」と言われれば、「まあ聞きなさい。私はね、その見てない絵をね、あたかもココロの目で見たごとく見ることができるというか、内なる体験としてと言うかね、尋常(じんじょう)ならざる視覚で見るというかね、まあ、そんなふうに見て、かつ知っているということですよ」なんて言うと、相手は「なんだそりゃあ。どうせそんなことだろうと思ったよ。そんなの思い込みのはげしいヤツのただの妄想じゃねえか」と言うものだから、温厚な私も、「うるさいよ。わたしゃー”デルフトの眺望”を複製で見てさえ、その場でその風景に入って行ける気がして、あたかも一瞬、そこに入りこんだような気がして、原画を見たときに、おそらくかんじるであろう、ゾワーとするような神秘的な体験を思い浮かべることだってできるんだよ~だ」と言い返すと相手は、「あほらし!そんなのただの空想じゃねえか、原画見たことないヤツの」と言い返すものだから、「ヘーンだ。本当にそうなんだもんね!」なんて、ムキになってきて、もうまるで子どものケンカです。

(”デルフトの眺望”)

正月も三日目です

年が明けて、今日でもう3日が過ぎて、これを10回くり返すと30日ということで、つまり1か月が過ぎるわけで、さらにはこの3日を100回くり返すと300日で、そうすると残り65日、つまりプラス2か月ちょっとすれば1年が過ぎたことになるわけですよね。

このように時間というものはアッという間に過ぎてい行きますね。

インドのマスター、バグワンは講話のどこかで、「人間はよく、何かをするまでに時間があると”時間をつぶす”と言うが、つぶされるのは人間のほうで、実際には時間をつぶすことなど、人間にはできない」と言ってましたが、本当に、時間というものは刻刻(こくこく)とやって来ては過ぎて行き、人はそれを止めることも、つぶすこともできず、何かくだらないことで気をまぎらわせながら、その時々で早く感じたり、ゆっくりだったりはあるものの、時間は冷徹に、確実に、過ぎて行くのだということに気がつくと、2018年も、もう3日過ぎ、私は着実に年をとっていて、まさに物理次元とは万人にとって容赦(ようしゃ)ない次元です。

マート良法を主宰される内海先生は、「この世は本番でなく、肉体を去ってからが本番だ」と言われますが、実際、この世は仮(かり)の浮世で、そのあとの世界こそが人の魂にとっては本番なのかも、なんて思うと、この仮の世の借(かり)の肉体は年をとって、やがて土に返るけど、まあ今日の1日を永遠の生の中の修行ととらえ、地道ではあっても、その都度(つど)気分を盛り上げ、威儀(いぎ)を正し、最善をつくし、目を見開いて生きて行ってみましょうかと、そんなことを思いながら、ひとり元気を出している今日このごろです。

(ダリ ”記憶の固執の崩壊”)