岩波書店の「広辞苑」

小学生のとき新学期になると先生が持っていた教科書にあこがれましたね。

自分が手にしている、もらったばかりの真(ま)新しい教科書じゃなくて、先生のは何年も使い込んだために小口(こぐち)が変色し、表紙なんかも経年変化で特有の色あせぐあいで、それでいて大切に扱(あつか)われているのが感じられる落ち着いた風合いをしていて、自分の教科書も早くあんなふうに使いこみ感のある質感を出したくて、指にツバをつけてわざと小口をこっすってみたりしましたが、そんな浅はかな方法ではとても本物の時間経過の風合いなどかもし出せるワケもなく、けっきょく1年たってみると、どこか破(やぶ)れていたり、落書きしたりして、先生の教科書とはほど遠い、情けないほど小学生っぽい傷みかたをした教科書になってしまってました。

私がまだ18~19歳のころ、ふんぱつして買った岩波書店の国語辞典「広辞苑」(第2版補訂版)は、今気がついてみると、小口は茶色に変色し、使い過ぎて破れそうになった裏表紙は布製のテープで補強したりしていて、小学生の自分が目にしたら、ウットリしてしまうだろうと思えるくらい本物の経年変化があちこちに色濃く刻印されたものになってます。

購入してから40年以上もたってるわけで、長いようで、でもいま思うとその年月もあっという間だったような気がします。

バスを待つ

子どものころの移動の手段はバスでした。

当時、車なんて持っている家庭はそうそうなかったですから、少し遠くの街なんかに行くときは、バスに乗って行くというのが、あたりまえでしたね。

しかも、そんなにしょっちゅう乗るというワケではなかったので、乗るときはちょっと緊張しました。

車内の独特のにおいや、バスがカーブを曲がるときのブワーンとくる遠心力なんか、普段(ふだん)の生活の中では感じることのない感覚だったのと、私はすぐに乗り物酔いする子どもだったので、その特有の感覚で気持ち悪くなってしまうことが多く、そのことへの不安で緊張したのだと思います。

バス停で、母に連れられバスが来るのを待つ時間は、子どもの私にとって、気の遠くなるような長い時間に感じられました。

田舎(いなか)道のバス停で、空の雲を見たり、「鉄腕アトム」のことを考えたりして、なんとかその時間を耐えてました。そんなバスにまつわる遠い昔の思い出は、今、思い出してみると、なんと言いますか、少しジブリ感のある、叙情的なイメージとなって、感じられるからふしぎです。

さっきFMで流れていた、富田ラボ フューチャリング ケミストリーの”ずっと読みかけの夏”の中に、「~あの人はバスを待つ~」という歌詞があって、それを聞いていると、私の頭の中に、ふいに、あの子どものころのバス停の情景が浮かんできました。

ついでに、車酔いの気分も浮かんできて、なんだか少し憂鬱(ゆううつ)でノスタルジックで、なつかしく、言いようのない気分になりました。

「日月両世界旅行記」

17世紀、フランスの風雲児、パリのネール門で、友人の助っ人として100人を相手に戦い、2人を殺し、7人に傷を負わせ、残りの荒くれ者を追い払うという大立ち回りを演じた人物、シラノ・ド・ベルジュラック。

エドモン・ロスタンの戯曲”シラノ・ド・ベルジュラック”では、生涯一人の女性を慕い続ける鼻の大きな男として描かれてますが、このシラノの著作”日月両世界旅行記”は、SF小説が登場する300年も前に書かれた、奇想天外な空想物語りです。

この物語りの中で「私」は、露(つゆ)を満たしたガラスビンをたくさん体にくくりつけ、太陽の熱によってビンが引きつけられ空高く上昇することで地球から離れます。

途中、事故にあったときに体に牛の髄液を塗りますが、下弦の月が動物の髄液を吸う性質があったため、「私」はどんどん月に吸いよせられ月世界に着陸し、その住人から、さまざまな知識を得ることになります。

たとえば、月の住人は食事をするとき「ただ匂(にお)いだけを食べて生きている」と教えられ、「きみの世界でも料理人や菓子職人は、他の職業の人より小食でもずっと太っている~それは食べものの匂いが彼らの身体に入りこみ、その身体を養うからだ」と説明されます。

ほかにも、アダムとイブを誘惑したヘビを罰するため「神はヘビを人間の身体の中に追放し~その後、生まれてくる人間は~腹の中にこの最初のヘビの子孫を養うことになり~きみたちは、それを腸と呼んでいる」だとか、なんとも奇想とジョークに満ちた話しが満載の宇宙旅行記です。

イタリアの怪物公園

イタリア中部にある「ボマルツォ怪物公園」は、16世紀、この地の領主であったオルシーニ家のピエール・フランチェスコ王子が、建築家ピッロ・リゴーリオに作らせた怪奇な公園です。

当時、最愛の妻を亡くした王子が、その悲しみをまぎらわすために作らせたというこの公園は、各所にスフィンクスや眠れるニンフ、二股のセイレーン(人魚)や有翼のドラゴンの石像が立ち並ぶ、まさにイタリアの夜をいっそう神秘にする幻想的怪物公園です。

ここは造られてから400年の間なぜか忘れ去られてしまい、荒れほうだいの廃墟のようになっていたのを、1954年にここを購入したジョバンニ・ベッティーニ氏により修復され、復活したということです。

私はオバケはこわくてだめですが、こんな怪物がたたずむイタリアの夜の公園なら、幻想とやすらぎの内に散策を楽しめそうで、月の出る深夜にでも一人で訪れてみたいと思うほどです。

この公園で月に照らされた石像を見ながら聴く音楽なら、キング・クリムゾンの「ムーンチャイルド」あるいはイタリアンプログレッシブロックのグループ”レ・オルメ”のアルバム「包帯の男(Uomo di pezza)」より「未完成の絵画(Figure di cartone)」などですね。

(「包帯の男」ジャケット)

ランプの匂い

私の母方の祖父は陶芸家でした。大学を卒業した後、税関の職員となり中国大陸で勤務した後、日本に帰って来たのですが、途中で退職し、岡山県湯郷(ゆのごう)という温泉地のはずれに家を建て、窯(かま)を作って陶芸を始めました。

子ども5人を養いながら、それほど売れるわけではない焼物を作り、税関吏だったときの貯えをきりくずしながら生活していたようです。

家は今で言うDIYで、手作りながら、こざっぱりとした品の良い建物でしたが、台所以外に二間しかなく、よくそこで5人の子供を育てたものだと思います。

私が小さかったとき、お正月にはこの祖父の家に母に連れられて年始のあいさつに行くのが恒例となっていましたが、明治気質のこの祖父に会うのは、私にとってこわくもあり、楽しくもありました。

楽しかった理由は、陶芸家にして芸術家のこの祖父が、よく私の美的センスをほめてくれたからです。

この手作りの家には電気が引かれていませんでした。日が暮れはじめると、祖父はランプを出してきて、そのガラスの筒に「ハアー」と息をかけて布で磨いてから、ランプの芯に火をつけると筒をかぶせ、照明としてテーブルの上に置きました。

それがその家での唯一(ゆいいつ)の照明でした。ランプの光はユラユラとゆれて、それを囲むみんなの顔を照らし、明かりから立ちのぼる匂いは、電気のある生活の中では、一度もかいだことのないふしぎで、なぜかなつかしさを感じさせる、そんな匂いでした。

好きな食べ物

ペペロンチーノと、納豆たまごかけご飯と、ケンタッキーフライドチキンがあれば生きて行ける、と思います。

私が夜食で作るペペロンチーノは、ニンニクとタカノツメ以外にトマトと玉ネギを少々きざんでパスタに混ぜこむので、正式にはペペロンチーノとは言えないかもしれませんが、夜中に仕事が一段落して、これを作って食べるのは至福の時です。

納豆たまごかけご飯は、納豆とたまごの他にすりゴマ、おかか、きざみネギ、青のりを入れ、そこに醤油をたらすと完璧です。

これは私が若いころ、東京・新大久保にあった手打ちうどんの店で出されていたものをヒントに改良したレシピですが、あつあつご飯にこの具材を入れ、かきまぜたのを食べてると、もう他にはなにもいらない、という気分になります。

私は子供のころ鶏肉が苦手でしたが、ある時、テレビでやっていた米国の戦争ドラマ「コンバット」の中で、進軍する途中でつかまえた鶏を料理して骨付きチキンみたいにしたのをサンダース軍曹が食べているのを見て、あこがれのサンダース軍曹があんなにうまそうに食べてるんだ、と衝撃を受けて以来、鶏肉が食べられるようになりました。

私の好みはともかく、いろいろな食材、たべものについての知識がクイズ形式で身につく絵本”季節のたべものクイズ絵本”が、全国学校給食協会から刊行されて、私はそのイラストを担当させていただきました。

子どもさん、お母さんの両方で楽しんでいただけるような絵本となっています。

(全国学校給食協会刊 ”季節のたべものクイズ絵本”)

いい曲

サザンオールスターズの桑田佳祐さんがラジオで「曲って、作ろうと思って作れるもんじゃない」と言ってましたが、そうだろうなあと思いますね。特に名曲なんてそうでしょうね。

よく音楽を理屈で説明して、ここがこのように作ってあるから名曲なんだ、なんて言ってるのがありますが、それは理屈を後付けして解説しただけで、それが名曲のでき上った本質じゃないですよね。

理屈で名曲が作られるのなら、理屈どうりにやってヒット曲を作り出したらいいわけですからね。

名曲、いい曲の本質ってなんだろうと考えていると、迷宮にまよいこむようなふしぎな気持ちになりなす。

”ソクラテスの弁明”という本の中に「私たちは~善についても、美についても何も知ってないと思われるが、しかし、彼は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、なにも知りはしないが、知っているとも思っていない」ということで、「私」のほうが少しマシなんじゃないかと思う、みたいなことが書かれていますが、たしかに私たちは「美について何も知らない」のかもしれません。

一見(いっけん)説明できそうな簡単なことのように思えるのに、いざ説明しようとすると、どうもうまく説明できないというのが美というものなんじゃないかと思いますね。

名曲というのもこれと同じようなものだと思います。

(ジェスロ・タル アルバム”THICK AS A BRICK”)

虫の擬態(ぎたい)のこと

昆虫の擬態(ぎたい)のイラストなんか描いていると、妙な気分になります。

たとえばアカエグリバという蛾(が)の一種は、枯れ葉とそっくりの姿をしていて、枯れた色や葉の葉脈まで自分の身体にじつにリアルに再現してます。

これは、この虫が「自分を枯れ葉のように見せると、敵に見つかりにくいんじゃないか」という発想を持ったということなのでしょうか?しかも「葉脈をハネのこの部分に入れると、より枯れ葉っぽくなる」と計画し、長い進化のあいだじゅう、その意思を持ち続け、その結果、そんな姿になったのだと…?

よく猿なんかに鏡を見せると、それが自分の姿だと気づかず、鏡に向かって威嚇したりしてますが、猿だって最初は鏡に映る自分の姿を自分だと認識できないくらいなのに、虫に自分の姿を枯れ葉に似せると敵をあざむけると思いつく知性があったのでしょうかね?

もしあったとして、この擬態を思いついた虫と、そうでない別の虫との違いはなんだったのかなと思ったり…。

だいいち虫がそんな戦略を思いつくほど知性的なら、ほかのことでも、もっと知性的な戦略を思いついてもいいように思いますが。

私はこの虫の擬態というのは、ものすごく知性的な何かが、遊びゴコロ満載(まんさい)で仕組んだことで、ムシ本人の意思じゃないような気がしますけどね。

(”びっくり!おどろき!動物まるごと大図鑑2”より ミネルヴァ書房刊)

身体について

最近よく、性同一性障害の話題を耳にしますが、これは自分の身体と心の性別がくい違っているという、ふしぎな症状のことですね。

私は性同一性障害とまではいきませんが、ときどき自分がちょっと女性的で脆弱(ぜいじゃく)なところがあるなあ、と思うことがあります。

豪胆なところはまるでなくて、ほんのちょっとしたことでも気に病(や)んだり、些細(ささい)なことでも、すぐあたふたしてしまいます。気分もコロコロ変わります。

身体は今でも細いほうですが、小学生のころは今よりもっと細くて、下級生の男子から「腕、ほっそいね~!」と言われたときなんか、ヨヨと泣きくずれたいくらい、なさけない気分になったことを覚えてます。

しかし、私の真の障害は、”人体同一性障害”とでも呼びたいような、そんな違和感ですね。

まだほんの幼児であったころ、私はじっとして夢想してるのが好きで、よく病気してたこともあり、自分の身体が重い鎧(よろい)のような気がして、うまく取り扱えてないような気がしてたものでした。

まあ今では、私は人間の本質は魂(たましい)だと思っているので、自分の身体が男であろうが女であろうが、それはいわば乗り物であって、中に乗っている人(つまり魂ですが)は、その都度(つど)その乗り物のコンデションをととのえて、うまく操作して生きてゆけばいいんじゃないかと思ってますけどね。

(最近買った鉄アレイ。5キロのしかなかったので、2個つないで10キロにしました)

マインドフルネス

呼吸というのは、意識してすることもできるし、意識しないでいても自然に続いているし、眠っているときも続いているし、考えてみるとふしぎなものです。

この呼吸に意識を集中するというのが”マインドフルネス”という瞑想法で、最近テレビなんかで取り上げられてますね。

リラックスして座り、自分の呼吸を見守るというのがポイントで、雑念がわいたら「今、雑念がわいている」と認め、そのことで自分を責めたりせず、続けて呼吸を見守るようにするというものです。

古くは仏陀が悟りを開いたとされるヴィパーサナ瞑想として知られ、現代では”神との友情”(ニール・ドナルド・ウォルシュ著 サンマーク出版刊)の中にも「自分の呼吸を聞く」ということで、同じような瞑想法が紹介されています。

これらは健康のためとして説明されているわけではありませんが、マインドフルネスについてはこれを続けていると、脳にある海馬(かいば)の灰白質が5%くらい大きくなり、これは人が新しい能力を身につけたときの変化に匹敵するそうで、さらに不安などに反応する偏桃体が小さくなるという変化も確認されていて、実際に93歳の老女が4日間のマインドフルネスを実行して、認知症が改善したという報告もあるそうです。

呼吸を見守るというのは、やってみるとなかなかむずかしいものですが、上達したあかつきには、私の物忘れの多さも少しは改善されるかな~と思ってます。

(”魔法の夜 歌う魚” 油絵 制作途中)

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