大阪録音スタジオ

大学生のころ大阪に住んでいて、中之島にあるロイヤルホテルの中の大阪録音スタジオというところでアルバイトをしてました。

ホテル内のホールでのコンサートのPA設備を運んだり、各種パーティ、結婚式場の音響設備のセッティング、挙式の録音、テープの編集など、なんでもこなして、忙しい時期には1日に2~3件の結婚式を担当したりして、大学の寮に帰りつくのは夜11時すぎというハードなものでした。

でも音響設備やオーディオにはもともと興味があったので、ホールで行われるミュージシャンのコンサートのときなどに使用するJBL(アメリカのスピーカーメーカーの老舗)や、アルテックのスピーカーを運んだり、普段は目にすることのないプロ用の器材をさわれたりするのは本当にワクワクする体験でした。

一般的にスピーカーとアンプをつなぐのは、プラスとマイナスの2本のコードですが、プロ用の場合、キャノンコネクターと呼ばれる特殊なジョイントでつなぐため、そんなキャノンコネクターのコードをまるめたのを肩にかけてホテルの楽屋ウラなどを忙しく走りまわっているときなど、「プロフェッショナルな自分」の姿にウットリしてましたね。

ある日、JBLのPA用スピーカーを組み立てるため、ホールまで単体の38センチウーハー(低音用スピーカー)を運んでると、録音スタジオの先輩から、「それ落とすなよ!もし落としたら、おまえの今月のバイト料なしやからな」と言われたときなど、自分の手にしているもののすごさが、あらためて実感されて、コワイようなうれしいような複雑な気分でしたね。

(そのころの勉強用ノート)

” グランドホテル ”

「今夜は絹のようなシーツで眠る。上質のワインを飲み、見たこともない肉料理~ろうそくの光とシャンデリア、セレナーデとサラバント、グランドホテルの素敵な夜」という歌いだしで始まる”グランドホテル”は、プロコルハルムの名盤のタイトル曲です。

いいですね~、このグランドホテルという響きには、なにか上流階級の気取った放埓(ほうらつ)と、上品で空虚な謎(なぞ)が満ちているようで、心くすぐられます。

私は20歳前、大阪に住んでいたとき、中之島にあった(今でもあります)ロイヤルホテルの中でアルバイトをしていたことがあり、当時のロイヤルホテルは新館や旧館からなる巨大ホテルで、私はその中で迷ってしまったことがありました。

広い階段を登ったり降りたり、厨房の中を抜け、きらめく大広間や小ホール、私の日常からはかけ離れた豪華なカーペットがえんえんと続く廊下を右に左に行くうちに、なんだか私は本当の迷宮に迷いこんだような幻想にとらわれて、正面にある巨大な鏡に映る自分の姿さえ、最初、自分と認識できなくて、その小走りに進む哀れな貧者のような人物が、自分であると気づくまでに数秒の時間がかかるというありさまでした。妙に気どった黒服のホテルマンに何度か道をたずね、さんざん迷ったあげくに、自分の知っている場所にもどってこれたときは、心底ホッとしたものです。

そのにがい経験の裏がえしかどうか、そのころからずっと私にとってホテルは、何か奇妙なあこがれを秘めた迷宮のような、非日常の場所というイメージが心の奥底にあって、そんな気分を呼び覚ましてくれる曲、それがこの”グランドホテル”です。

エピタフ(墓碑銘)

「まっすぐな男が、遅れてきた男に言った。君はどこにいたのか」ていう詩がありましてね。「私はあそこにいて、私はここにいて、そして、私はその間にも」と、それは続くんですが、私の意識の目覚めといいますか、実人生の役にはまるで立ちそうにもないある種の芸術チックな思いへの目覚めといいますか、そんなのがこの詩とともに始まった気がします。

まだ16~17歳のころでしたね。なんの役にも立たない、そんな高揚する気分に目覚め、しかも、私はそれをことのほか大切にしたので、自分は青年期の初めから、実用的で着実な道というものを歩み損(そこ)ねたような気もします。

でもまあ、作家トーマス・マンが書いているように、「ある種の人には、そもそも正道というものがない」というのが本当なら、私は道を歩み損ねたのではなくて、そんな実用性も着実さもない道こそが、つまり私の道だったのかも、なんてことを思ったりもします。

「私は風に語りかける。私の言葉を風は運び去る」。まあ、なんて言うんですかね無為自然といいますか、この詩には特になんの箴言(しんげん)も、警句も、教訓も含まれてないんですけど、私にとって、なんだかそれが至高の方向性に思えて、さらには妙にしっくりくる自分の墓碑銘のような気も少ししていて、今ふり返ってみると、あまりほめられたものではない自分の人生の基調音として、それがいまだに私の脳髄の中に鳴り響いているような気がしてます。

AI(アーティフィシャル・インテリジェンス)カー

朝、車に乗ると、ハンドル握る手が冷たいです。乗りたてはヒーターもまだ利いてないですしね。

以前、NHKFMで、朝日化成顧問の吉野彰(あきら)さんという人が、やがて車は個人所有のものというより、AI(人工知能)による自動運転の無人タクシーのようなものになり、インターフェイスはスマホで、自分が乗りたいときは呼び出せば、30秒くらいでやって来て、行きたいところに乗せて行ってくれるようになるだろう、と言ってました。

乗り捨てOKなので、駐車場さがす手間もなしですよね。自動運転なら、ハンドル握る必要がないので、冬でも、もう手は冷たくないですね。

交通事故は減るでしょうね。今、問題になってる高速道路逆走や、あおり運転もなくなるワケで、便利な世の中になると思います。やがて、運転は車好きの人の趣味だけになって、大部分の実用的な車は、ハンドルもブレーキもないロボットカー(AIEV)になるというわけです。

現在、車用のAIはアンドロイドなどが公道で実証実験をしていて、知能は7歳くらい、自己学習機能による経験を積んでいる最中(さいちゅう)で、2025年には15歳くらいの知能になり、いよいよAIEVは実用段階に入るらしいです。

そうなると、現在はパソコンやスマホで10アンペア、100ボルト以下のマイクロエレクトロニクス主流の世界が、車という需要を得て、数百アンペア、数百ボルト以上のパワーエレクトロニクスの世界となり、直流送電の可能性も考えられ、世界の電気事情は激変することになりそうですね。

(クロネコヤマトでもらったミニカー。こんなのもやがてはAIEVになるんですかね)

ピカソ 作 ”コリーダ・闘牛士の死”

ピカソはアンリ・ルソーのファンだったようですね。37歳年上の売れない画家だったルソーの絵をピカソは複数所蔵していて、”ランプのそばの自画像”などは今でもパブロ・ピカソ・コレクションに入っているそうです。

たしかに、絵を見くらべてみても、ピカソは天才的戦略家といいますか、意図された奇抜さといいますか、意表を突こうとして意表を突いたような絵画センスを感じますが、ルソーの絵は、何ひとつ意図してない無意識的絵画のすごみを感じます。ピカソの絵が練り上げられた迷宮なら、ルソーの絵は解きあかせない魔宮といったかんじです。

そんなワケで、私としましてはピカソの絵よりルソーの絵のほうに興味があるということになるのですが、でも、ピカソの絵でも好きなのがあって、以前、サザビーズのオークッションで113億円(2004年当時)で落札された”パイプを持つ少年”と、もう1点”コリーダ・闘牛士の死”という小品です。

”~闘牛士の死”は当時住んでいた川崎を走る田園都市線の車内にあった東京都現代美術館の”ピカソ展”の広告で見たとき、「100号近い大作だろうな」と思っていて、実際に見に行くと、2号かそこらの小品だったので(正確には何号か知りませんが)驚いたのを覚えてます。

「これ、部屋に飾るとオシャレだろうな~、でも持って帰ったらおこられるだろうな~」と思った記憶があります。

本当に持って帰ってたら、今ごろ刑務所の中でしょうけどね。

(ピカソ展のポスター ”コリーダ・闘牛士の死”)

 

禍福を決めないこと

若いころは「成功哲学」みたいなことに熱中したこともありました。強く思えば願いはかなう、とか、ポジティブな思考を続ければ人生は好転する、とかいうものですが、今ころは、この宇宙はそれほど単純でもない気がしてますね。

ポジティブな生き方は、それ自体は良いでしょうが、人の人生には、それにかかわらずいろんなことが起きますね。

悩みごとや心配は常にありますね。でも、去年の今ごろ心配していたことは、今となってはもうどこかに行ってしまっていて、去年の今ごろ想像もしてなかったことが、今現在では切実な悩みになってますね。

これが3年前、さらには10年前となると、もうまったく今となっては考えもしないようなことで悩んでたり、心配してたりして、その時はそのことで頭がいっぱいで、「いったい自分はどうなるんだろう」と、途方にくれたようなことも、今となっては忘れてしまっている悩みごとのひとつとなっていることが多いですね。

「人間万事塞翁(さいおう)が馬」ということわざがありますが、幸福だと思っていたことが禍(わざわい)となり、禍と思っていたことが幸福のもとになったりするので、禍福はまったく予想できない、という意味の中国の故事ですが、だから今起こっていることは、「今、それはそうなっている」と言うだけにとどめて、それで人生の禍福を決めてしまわないように、といういましめです。

さっき近所の年配の人が来て、その人は以前、両親が要介護状態になったとき、自分もガンを宣告されて、目に前がまっ白になったということでしたが、「今は、それもひとつの経験だったな、と思えるよ」と言ってました。

今起こっていることは「今、そうなってるんだ」と言うにとどめようと思います。1年後、3年後、10年後、それはきっと「そんなこともあったよね」と笑って話せるようになっているにちがいない、と思うので。

(とりあえず、コーヒーでも1杯)

カゼ引かないです

寒さが身にしみますね~。3年くらい前から、首を左にひねると、左半身がシビレるようになって、なんだろうな?と思っていると、テレビで同じような症状の人を取り上げている番組があって、頚椎(けいつい)の変形による神経圧迫ということでした。

その番組で取り上げた人は、症状がすすんで、這(は)って歩くしかなくなって、手術を受けてましたが、私も同じになるかな~なんて思っていると、その年をピークに症状は少しやわらいで、今では左手が少しシビレるくらいですんでますが、オマケ(?)と言いますか、たぶんその影響で、手足が強烈に冷えるようになりましたね。

若いころ大阪で大学生だったときなんか、冬でも素足にゲタなんてバカな格好で平気でしたけど、今となっては、そんなこと思い浮かべるだけで震えがきますね。

ところが私はここ15年以上カゼを引いたことがないんですね~。1~2回は少しあぶないところまで行きましたが、熱出て寝込むということはなかったです。

これには秘密があって、それはズバリ、タワシ健康法ですね。毎日じゃないですけど、カメノコダワシで体をゴシゴシこするんですね。最初はミミズ腫れになりますが、慣(な)れると気持ちいいですよ~。

おかげでカゼ引かない人生です。インフルエンザ大流行のニュース聞いても「あ、そう」てなもんです。

(これがカメノコダワシ)

 

物欲(ぶつよく)

私は最近ブログに”ロレックス”だの”マッキントッシュ”だの書いて、物欲をさらしてますけど、自分としては本当は物への執着はあんまりないつもりなんですけどね。

あれがいい、これが好き、こっちが美しいとか言って、いろいろさまよってますが、まあ、視線はいつも物質世界の彼方(かなた)に向いていると思ってます。かっこ良すぎますかね。こういのは凡人のハッタリかもしれませんけどね。

バグワン・シュリ・ラジニーシは、「権力は人を堕落させる、と言うが、そんなことはない。もともと堕落している人が権力を得ることによって、その堕落を表面に出せる力を得たというだけだ。権力も財力もない人びとは、堕落していても、それを表に出す手段を持っていない。そんな人びとは、せめて善良なふりをして生きるしか手がないのだ」と言ってましたが、私が物に執着しないと言っているのは、なんだかこの理屈と似ている気もしますね。

つまり、私は自分の物欲を表現するほどの権力も財力もないので、ここはひとまず善良なふりをして、「視線は彼方に向かっている」なんてうそぶいて、物欲のないふりをしているのかも知れません。

この化けの皮をはがすには、だれか私に巨万の富を与えてみればいいですね。そうなると「彼方への視線」なんて言ってたのが、突然、高価な美術品だの、美しい家だのを買いあさり始めるかも知れません。

そして、死に際して、かのサマセット・モームのように「私が死んだら、私からはすべてが取り去られる。この家も、この家具も…」と嘆くかも知れません。

まあ、でも、そうはならないような気もしますけどね。いずれにしても私が死んだら、画家アンリ・ルソーの墓石にアポリネールが刻んだ墓碑銘のように(私には墓はいりませんが)、だれかが私へのたむけとして「聖なる余暇に、まことの光の中で、星たちの顔が描けますように」というような、素敵な詩の一篇でもささげてくれれば、ありがたいことだと思ってます。

(アポリネールの詩文は平凡社刊”アンリ・ルソー楽園の謎”より引用しました)

マッキントッシュのアンプ

マッキントッシュと言えば、今ではアップルのパソコンの名前ということになりますが、私が10代のころはアメリカ製の高嶺(たかね)の花の高級オーディオの名称でしたね。

昔、ジョン・F・ケネディの暗殺をテーマにした映画、”ダラスの暑い日”とういのがありましたが、その中で、暗殺に関与しているアメリカの黒幕の豪邸の室内に、このマッキントッシュのオーディオシステムがドーンと置いてあるのが映っていて、「うお~、すごい。ありゃあマッキントッシュのパワーアンプとプリアンプじゃね~か!」と、そっちが気になって、良くも悪くもマッキントッシュのオーディオは、アメリカの成功と富の象徴だなあ、と思ったものでした。

美しいんですよね、そのフロントパネルが。黒地でクリスタルガラスにおおわれた前面に銀縁のダイヤルが付いていて、パワーアンプには大型のブルーの出力メーターが光っていて、眺(なが)めてるだけでうっとりですね(実物にはさわったこともないですけどね)。

プリアンプはC-40というのがいいですね。プリアンプにもかかわらず、モニター用に20W+20Wのパワーアンプが内蔵されていて、私がもしこのプリアンプ持ってたら、もうこのモニター用出力にJBLのスピーカーなんかつなぐだけで、パワーアンプがなくても大丈夫ですね。パワーアンプあると発熱で夏場、暑いですから。

聴く曲はなんですかね~。グラハム・ナッシュの”シカゴ”なんかいいですね。

 

持って行けない

1965年、91歳で亡くなる直前、作家サマセット・モームは甥(おい)のロビン・モームにこう言ったそうです。「私はもうすぐ死ぬ。でも、そのことを考えるのは本当に嫌なんだ」と。

モームは成功した作家で、小説は世界中で出版され、劇が上演され、それは巨万の富を彼にもたらして、美しい邸宅と庭、高価な芸術品と高価な家具…、まわりじゅうそんなものに囲まれていたにもかかわらず、甥が「あなたの人生で一番楽しかったことは?」とたずねると、「私にはひとつも思いつかない」とモームは答え、「私が死んだら、私からはそのすべてが取り去られる。この家も、家具も…。私はテーブルひとつでさえ持っては行けないのだ」と嘆いたということです。

現在、世界で一番のお金持ちのビル・ゲイツも、「生きていて何も楽しいことはない」と言ったとか、言わなかったとか。

のちに仏陀となるシッダールタ王子は、そのことにいち早く気づいて王宮を捨て、探求の旅に出たということなんですかね。

バグワン・シュリ・ラジニーシが言うように、「自分たちのまわりに世間的なものしか持ってない人びとは、本当に豊かなのではない」ということなんですかね。「真に豊かなのは覚者(ブッダ)だけだ」とね。

たとえば、プレミア付きのロレックス持ってたとしても、そんなの真に豊かなことなんじゃないのかも知れませんね。でも、私なんかとてもその境地じゃないので、たとえばイエローゴールドのロレックス”デイトナ”なんて持ってたら、少しムフフと豊かな気分になるようなかんじもしますけどね。どうなんでしょうね。

もちろん、私も死ねば、それを持って行くことはできないのはわかってますよ。ただ、美しくて好きだというだけなんですけどね。新車1台くらいの値段ですから、とても買えませんけどね。

(”デイトナ”116518LN イエローゴールドモデル)